向田聡子の展示スペース
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Mugita Shunichi

モードノオト 補遺 2022.04.18

麥田俊一

ファッションジャーナリスト

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 会場横の駐車場で、再び煙草に火を点けた。一台のバンが停まっている。紫煙越しにそれとなく車内を窺ってみる。さっきは確かに人の気配があった。だが、幸いにしていまは人影がない。煙草を咥えたまま、ゆっくりと、先ほどより狙いをつけていた竹薮めがけて歩いてみる。万が一誰かに見られたとて、竹藪に気を惹かれたと云う弁解が立つように、ぶらぶら歩を進める。何に臆している?いつものことだろう?見咎められたら、よせばいいだけだ。私はおもむろに社会の窓を開けた。堰を切っていばり(尿)が下草を勢いよく叩きつけた。噎せ返るほどに青臭い臭気が立ち昇る。不穏な音に怯えたのか、薮の中の鳥たちが一斉に飛び立った。えっ、誰か居るのか?小心が脳裡を掠めた。だが、溜まりに溜まった排泄物を一気に放液する法悦感にいまは溺れるに如くはない。私は自分が、放牧されている牛のように思えた。足元には土筆が伸びている。袴の数だけ背丈が高い。黄色く弾けたタンポポの茎も随分と太い。振り返れば、富士の山がデンと座って黙している。一瞬間、懐かしい記憶が、いまと云う時間を軽々と追い越していった。駐車場の傍を流れる入山川の水音でハッと我に返った。俺はいま、取材中なのだ。富士吉田を流れる河はどれも、たとい幅の狭い水路であっても流れが急なことを思い出した。容赦のない水流の砕けた白い波頭が、午後の陽光を受けてキラキラと輝いていた。

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 此度は、山梨県の富士吉田市を訪れた話。「ここのがっこう」の2021年度受講生が手掛けた作品を展示した「coconogacco exhibition 2022」(4月16日より24日開催)が同市で催された。私は審査を兼ねた取材のための日帰りバスツアーに参加した。同市を訪れるのは初めてではない。「ここのがっこう」の展示は昨年よりこの地で催されているから、その時以来だが、それとは別に、私は一年に一度、富士吉田に来る。杓子山の麓、山腹に抱きつくようにして建っている湯治場に逗留するのが、数年来の私の常となっている。人里離れた湯治場に独り隠(こも)る。隣接する硯水不動尊(けんすいふどうそん)の霊験あらたかな湧水(冷泉)を沸かした湯が私の性に合うのだ。また、キンキンに冷えた霊水を呑めば、酒に爛れた臓腑が生き返る。以前、宿主に鉱泉の来歴を聞いたところ、かつて富士吉田は染物が盛んだったことがわかった。同市が古くより織物職人の街として栄えてきたことはその後で知った。

ここのがっこう 山梨県富士吉田市 展示会

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 「ここのがっこう」は山縣良和(「リトゥンアフターワーズ」)により2008年に開講された。ファッションデザインを育成する単なる教育機関の枠に収まり切らない、ファッション表現を学ぶ現代の寺子屋のようなものだ。変化が産む急流に呑み込まれることなく、また、時流に棹差すこともせず、「ここのがっこう」は様々な卵が孵化する揺籃の役割を担ってきた。山縣を筆頭にプロのファッションデザイナーが教えることの可否は大いにあると思うが、欧州に比してファッション表現を教えるスペシャリストが極めて少ない日本に於いては、それも致し方ないことなのだろう。折ある毎に私も受講生のための講評会に参加している。彼等の作品と、彼等の生の言葉を浴びて学ぶことが少なくないから続けている。但し、彼等のモチベーションは稚拙で洗練とは程遠く、咀嚼されてはいない創作主題は、切れ味の鈍い鑿で削り出した出来損ないの木像のようなものだ。粗野だから強い。だが、この太々しさが凡てではない。だから、教える側は、原木に対して尤上の対応をする。世間の眼、他人の暴言、表現の情熱、そして創作そのものの孤独に対しても、それらを切り抜けるべき難問として、教える側は彼等にしか為し得ない言動で対処してきた。未だ眼鼻の区別すら覚束ない木像が魂を持つか否かは、此処(ここ)を巣立った後の本人の心構え次第である。

 インスタレーションは、前回はFUJIHIMURO(富士氷室)のみを会場にしていたが、此度は、そこをメーンに、徒歩で移動可能な三箇所を新たに会場として、各所の展示を見ながら、散策がてら下吉田地区の昭和的風情が満喫出来る趣向のようである。木造の古民家とか土蔵とか仕舞屋(しもうたや)をリノベーションした珈琲店や飲食店、宿泊施設などが街の至る所に点在している。過去より現在に続く、ハタオリマチ(機織り街)の富士吉田が経ててきた時の流れの中を逍遥しながらの取材は、痛く感慨深いものだった。彼等(受講生)は、街並みの描写はおろか、打ち捨てられた庭の溶岩やひねこびた古木とか、蔵の中の調度品やささくれだった畳の表現ですら、作品に秘めた一種の難問として描き込んでいる。それには模範解答も正解もない上に、常に審査員の冷徹な眼が光っている。「答え方」を一つでも誤れば、その瞬間に我々(審査員)は「こんなものはファッションではない」と断定してしまう。創作とは、あらゆる難問に答えていくことだが、しかし、その「答え」は一つだけである必要はないと私は考えている。此度の展示で印象に残った作品を幾つか紹介しておく。八木華の怖いマリエ水谷透太の便所に飾った、「ワンカップ大関」の空き瓶を使った、荒川眞一郎ばりの真っ白なオブジェクト、田中優大の「レゴ」ブロック式に遊べる玩具のような服が面白かった。他にも、過去の講評会で見た制作途中の作品を前に進めた人もいれば、創作動機を曲げずに表現方法を変えてきた人もいた。個々の創作に通底する心的パターンを基軸に、手を動かすことで運動を始めた思考の軌跡が様々に変化しながら、それぞれが奇抜な紋章のようなカタチを描き出している。狭いながら、迷宮のような空間も手伝ってか、子供の精神を可能な限り保ち続けている幾人かの作品の面白さが際立った。

 最後に私のメモの欄外に記した二人の名前を挙げておきたい。一人はジュエリー作家を目指す向田聡子。彼女は、微かにエロスの匂いが漂う、奇妙に捩れて倒錯した夢想を、透明な砂糖菓子のような小さなジェリーに凝縮させていた。フェティッシュな観察眼の持ち主である。もう一人は、權藤駿。素材は廃材のみ。二束三文の値打ちもないくせに、入手するためには随分と手間暇が掛かる廃材を題材にしている。此度の作品は、大いに一発芸式な作品ではあるが(原材料は山梨県内で拾った廃材なので、後日返却するとのこと)、幽暗の妖かしが天涯のカタチを得たかのようなオブジェクト。メタルと木片、その他の廃材で造形した巨大なジュエリー(?)は、まさしくラビリンス(迷宮)に棲息する幻想の海馬の如し。夥しい数のアルミ製の蛇腹ホースが編み込まれた胴体は、毒蛇が蠢くメドゥーサの頭髪のようだった。いつもながら、好みの領域に自由に遊び、気に入ったテーマで書いてきた。此度の展示に於いて総じて感じたのは、「衣装」の主題によって開かれた小宇宙が、「飾る」の主題によってその円環を見事に閉じると云った具合に、展示作品は、服そのものよりは装飾やオブジェクト表現にしなやかで奔放自在な飛翔を見たように思う。(文責/麥田俊一)

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