美容室でのサロンワークやファッションショーの経験を積む中で、憧れの渡辺サブロウ氏の門を何度も叩くも断れ、広告関連のメイクアップ事務所に入社。そこで有名カメラマンに見出され、次々とトップファッション誌や企業広告のメイクを担当、次第に売れっ子のメイクアップアーティストに。しかし追い続けるサブロウ氏のメイクはできないこと、そして、自分がしたいメイクに気づいた吉川氏が取った次の行動とは?連載「美を伝える人」ビューティクリエイター吉川康雄氏(4)
ー自身のメイクの方向性が見え、次はどのようにキャリアを進めたのでしょうか。
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そのころにはモード誌を担当していたし、広告も手掛けて、さまざまな仕事をさせていただきました。でも当時、撮影というのは、基本的にスタイリストの力が大きかったんですよね。スタイリストが資料を持ってきて、それに合わせて僕たちメイクアップアーティストはメイクを提案する。頭の中にはもっと違ったアイデアがあるのに、僕たちには決定権がないし、主張しすぎると仕事がもらえなくなる。また大きな広告の仕事は自動的にサブロオさんのような大御所に話がいく。特別な強いリクエストがない限りはそういった大きな仕事以外の仕事をもらうだけだったんですよね。これでは自由に作りたいものは作れないし、先輩が引退しない限りは上に行けないと感じていて…。一方で若手はは皆、先輩のメイクをマネをすることで仕事をもらっていけれど、果たしてそれでいいのか?それでは新しいことが生み出されない。人のコピーだけしているのは、クリエイティブではないし、面白くないと思ったんです。
ーその“もがき”からどう抜け出したのですか?
そうだね…。撮影する外国人モデルから「吉川くんは英語もできるし、アメリカ来ればいいのに」と言われることが増えるようになって。それがきっかけで、海外生活に興味を持ち始めたかな。その当時、実は海外で仕事がしたくて毎年3ヶ月間、パリには行ってて。でも現地の雰囲気になじめず、いつも惨めな気持ちで帰国していたんです(笑)。だからパリに住みたいとは思わなかったんですよね。
ー日本人には、はっきりモノを言う外国の方に最初は戸惑いますよね。
そうでなんですよね。でも30歳を過ぎたころに、それまでコマーシャル的な印象が強くてあまり興味がなかったニューヨークに、仕事で初めて行くことになったんです。
ーそこが転機になったとか?
行ってみたらすぐに街のムードが好きになりました。すごくエネルギッシュだし、刺激的だし、「ここだったら住みたい!」そう思ったんです。調べたら世界のトップフォトグラファーのほとんどがニューヨーク在住なんですよ。パリではなくニューヨークに世界最高峰の才能が集まるんだと。そこから渡米の決意をして、準備を始めるわけです。
ーニューヨークの準備とは?
とにかく貯金ですね。がむしゃらに働きました。雑誌の仕事は知り合いの仕事以外は全て断り、お金がいいカタログや広告の仕事ばかりしました。そして定期的にニューヨークに行き、エージェントを回って自分のブック(これまでの仕事や作品を収めたカタログのようなもの)を見せに行きました。
ーエージェントの反応はどうでしたか?
案の定ですが、エージェントからはことごとく断られるんですよね。でもニューヨークのエージェントたちは、必ずフィードバックをくれて。「君のメイクはデリケートでいいけど、パンチが足りない。メイクアップの仕事は頼めない」。こんなふうに言われるんです。日本に帰国してはこのフィードバックを作品に反映させ、また次、渡米する時に見せに行くわけです。
そんなことを3〜4年続けて、ようやくエージェントに入ることができたんです。
ーすごいですね。諦めない気持ち、そのための技術向上、誰でも真似できることではないですよね。その後、エージェントに入ったら仕事は順調だったのでしょうか?
それが全然入らなくて…(笑)。業界のトップエージェントに僕のブックが回ったけど、反応がなかったのです。そんな時に「作品撮りをしないか」と、声かけられたんです。ニューヨークには、僕のように世界中から集まってきた仕事がないけど自分のやりたいことを追い求めて頑張っている人がたくさんいて、そういう人からのオファーでした。日本では自分のやりたいメイクが簡単にはできなかったから、作品撮りでも絶対、ほかの人のメイクをコピーしたくなかったし、誰かのためにやるのではなく、自分のやりたいことをやると決めたんです。
1995年テストシューティング
ーそう思ってもなかなかできることではありませんよね。
そうかもしれませんね。でも、だからこそ自分の決意はいつもはっきりと心に刻んでいました。そうやって、自分のやりたいことをやっていたら、その作品撮りの写真がたまたま編集者の目に留まって、雑誌の表紙に選ばれて。それを見た売れっ子フォトグラファーに指名され、雑誌のページを一緒に作ることになって。それまで半年間一切仕事がなかったのに、急に後のイタリア版「ヴォーグ(VOGUE)」の仕事で伝説的スタイリストになるパティ・ウィルソン(Patti Wilson)らと仕事することになったんです。
(文 エディター・ライター北坂映梨、聞き手 福崎明子)
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