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ラフ・シモンズと歩んだ男が語る、セールスとブランドの関係

セールスエージェンシー 石塚清史インタビュー

 現在ブランド休止中の「ラフ・シモンズ(RAF SIMONS)」の日本、アジア市場を支えたセールスエージェント、石塚清史氏を知っているだろうか。ラフ・シモンズのセールスとして携わり、約14年にわたりブランドをサポートしてきた。セールスエージェント ノースリバティー(NORTHLIBERTY INC.)を率い、「マリナ イー(MARINA YEE)」や「クヴァドラ ラフシモンズ(KVADRAT / RAF SIMONS)」、「ジュリー ケーゲル(JULIE KEGELES)」、「ベッドフォード(BED j.w. FORD)」など名だたるブランドの日本およびアジア市場を担う。今年からPR事業も本格的に手掛け、ワンストップでビジネスを支える体制を強化。来年はパリ・マレ地区にショールームを開設するなど、海外ブランドと日本、アジアを繋ぐ仲介者としてのポジションを固めている。そんな石塚氏に、ラフとの貴重な思い出から、セールスとしてのブランドとの関わり方、日本と海外ブランドを繋ぐ展望を聞いた。

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石塚清史:NORTHLIBERTY INC. 代表
ドリス ヴァン ノッテンやマルタン マルジェラの販売員および卸売営業を経て、エドストロームオフィスに入社。渡英後、2011年にNORTHLIBERTY INC.を設立。2013年から現在に至るまで、ラフ・シモンズのセールスエージェントを担当し、日本およびアジア市場を担う。取引先ブランドはマリナ イー、「DSM ケイ ニノミヤ(DSM KEI NINOMIYA)」、「ジャクムス(JACQUEMUS)」、「ワイプロジェクト(Y/PROJECT)」、「マチエール・フェカル(MATIÈRES FÉCALES)」、「ヴァケラ(VAQUERA)」など多岐に渡る。エストネーションのシニアビジネスアドバイザーを務める。また、アジア人として初めて、ベルギーファッションアワード2025の審査員に選出。ラフ本人・DSMGとの長年の付き合いから、ドーバー ストリート マーケット ギンザで開催中のラフ・シモンズのアーカイヴ販売イベントが実現。イベントをサポートしている。

「体に電気が走った」 第一印象の衝撃に従って切り拓いた道

──ファッション業界でセールスは重要な仕事の一つですが、一般的にはあまり知られていません。まずは石塚さんがファッションの世界を志すきっかけを教えてください。

 15歳の時、兄に連れられて仙台のフォーラスで「コムデギャルソン オムプリュス(COMME des GARÇONS Homme Plus)」に出合ったのがきっかけです。当時の衝撃は本当に忘れられないですね。それから、同じ日にセレクトショップ「リヴォルーション(ReVoLuTioN)」でラフ・シモンズにも出合い、同じく衝撃を受けました。僕にとって思い出深いお店の一つで、安藤社長(安藤俊夫 リヴォルーション社長)と出会わなければ、「マルタン マルジェラ(Martin Margiela)」や「ドリス ヴァン ノッテン(DRIES VAN NOTEN)」、ラフを知ることもなかったんじゃ無いかと思います。

※東北を代表するセレクトショップで1号店は1981年にオープン。ジャン=ポール・ゴルチエやヴィヴィアン・ウエストウッドなどを販売し、一時期、メゾン・マルタン・マルジェラ(現メゾン・マルジェラ)を世界で最も売り上げた店舗としても知られる。

──デザイナーやブランドを立ち上げる方面に興味はなかったんですか?

 高校卒業後、東京の服飾専門学校に通った時はクリエイティブにも興味がありました。ただ、時代感として1990年代のテクノ・ハウスミュージックの全盛期で、学業よりもDJにのめり込んで、サボりがちになりました(笑)。結果論として言えることですが、当時の出会いが現在の仕事の人脈にもつながっているので、なるべくしてそうなったのかなと思っています。

──キャリアのスタートはドリスの販売員とのことですが、世界2番目の旗艦店として青山店ができたくらいの頃でしょうか。

 その頃です。二十歳で販売員になったのですが、その2年後に当時のドリスの代理店が倒産してしまい、無職の危機に。そのタイミングでマルジェラに拾っていただいて、伊勢丹新宿店 メンズ館で1年半ほど販売を経験しました。当時メンズ館の勢いは凄まじく「ディオール オム(DIOR HOMME)」のデニムを買うために朝から行列ができたり、販売員が月間何億も売り上げる、という時代でした。

──販売員から、セールスの仕事へとキャリアチェンジした契機はなんだったのでしょうか。

 たまたまマルジェラのショールームに遊びに行った時に、淑子さん(エドストローム淑子)を見かけた瞬間、身体中に電気が走ったんです。「この人だ!」と。そこから、「荷物持ちでも何でもするから、一緒に働かせて欲しい」と頼み込んで、マルジェラの営業に採用していただきました。当時の日本でマルジェラを担当していた三菱商事傘下の「ここのえ」の社内では英語もフランス語も話せない僕に難色を示していたそうなんです。そこでも淑子さんが「私が責任を取るから、やる気があって販売実績があるキヨ(石塚氏の愛称)に任せてみましょう」と推薦してくださったそうで。本当に感謝してもしきれない、人生の師のひとりです。マルジェラでお世話になった営業部長や横溝知将社長※からも、数字の捉え方やファッションビジネスの組み立て方、営業、卸売、店舗マネジメントなど、今に通ずる基礎を教えていただきました。

※エドストローム淑子:現エドストローム オフィス代表。20代の留学先でマルタン・マルジェラと出会い、クリエティブチームなどで約20年働く。その後フリーランスとなり「パープル(PURPLE)」創刊にも携わり、帰国後の2009年にエロストローム オフィスを立ち上げ。さまざまなブランドのPRからセールス、イベントを手掛ける。

※横溝知将:スタッフインターナショナルジャパン代表取締役社長兼最高経営責任者を経てマルジェラジャパンの代表取締役社長兼CEOを兼務。ジルサンダージャパンの代表取締役社長やOTBグループのジャパンリージョンCEOを歴任。

卸営業マルタン マルジェラ ショールームのバックヤードにて

Image by: Kiyofumi Ishizuka(NORTHLIBERTY INC.)

淑子さんとのミーティング

Image by: Kiyofumi Ishizuka(NORTHLIBERTY INC.)

──エドストローム オフィス時代に海外ブランドのセールスの土台を築いたと思いますが、その後イギリスに渡っていらっしゃいます。

 その頃、「アダム キメル(ADAM KIMMEL)」や「バイレード(BYREDO)」も担当し、日本市場の開拓のため、多くのことを学びました。さらにそのスキルを磨くために半ば勢いでイギリスへ行くのですが、貯金もない30歳の無職。頼れるアテもなく、目減りする通帳を眺めるような日々でした。そんなある日、マルジェラ時代のパリ出張で知り合いになった、ビアンカ(ビアンカ・ルッチ)※から「イギリスにいるなら、私たちのショールームでアルバイトしない?」と連絡がきました。ちょうど彼女がラフのマネジメントを始めることが決まっていたようで、ここから14年にわたるラフとの仕事が始まりました。

※ビアンカ・ルッチ(Bianca Luzi):メゾン・マルタン・マルジェラ(Maison Martin Margiela)やダーク・ビケンバーグ(Dirk Bikkembergs)でブランドビジネスの手腕を振るい、ラフ・シモンズではCCOおよびCEOに着任。長年のラフのビジネスパートナーとして知られる。

渡英後、初めてラフ・シモンズのショールームで仕事をした際のビアンカCEOとの食事会

「ようやく会えたね」 ラフ・シモンズとの出会い

──その頃のラフは、「ディオール」(当時はクリスチャン・ディオール表記)のクリエイティブディレクターも務めていた頃でしょうか。

 そうですね、ちょうど華々しいデビューを飾った頃だったと思います。一方で、自身のブランドは戦略を練り直すタイミングで、ビアンカの指揮下で成長を目指す時期でもありました。

──本人との初対面は覚えていますか?

 ラフ・シモンズで仕事を始めて少し経った頃、ビアンカに呼ばれてベルギーのアントワープのオフィスに行ったんです。緊張して待っていると、ドアを開けたラフが「ようやく会えたね、あなたがキヨか。話はよく聞いてるよ」と。チームで歓迎会を開いてくれて、とても感動したのを覚えています。

──天才と称されるラフのクリエイションを側で見て、いかがでしたか。

 彼のクリエイションは、例えばAとBを掛け合わせると、全く想像もつかないX・Z・Aのようなものが生まれてくる。学生時代の作品を見せてもらったことがあるのですが、なんだこれはって感じで衝撃でした。ノートにバネを伸ばしてセロハンテープで貼った作品とか、ネジのような小さな工具をコラージュしたものとかがびっしり敷き詰められていて、これこそがラフ・シモンズなのかと圧倒されました。

ラフ・シモンズ 2016年秋冬コレクション

Image by: NORTHLIBERTY INC.

ラフ・シモンズ 2022年春夏コレクション

Image by: NORTHLIBERTY INC.

──ブランド、デザイナーとセールスの立場で関わる中で、印象に残っているエピソードはありますか?

 彼がディオールのデザイナーだった頃に、ラフ・シモンズで日本の和柄をオマージュしたコレクションを作りたいと言い出したことがあって。日本人の僕からするとトゥーマッチに感じたので、セールスとしてはちょっと......と反対したんです。

──ローカルマーケットを省みて、コレクションを充実させるための意見はセールスの手腕でもありますもんね。

 でも、その話がラフの耳に入り、彼がディオールのアトリエから、我々のパリのショールームに車で駆けつけたことがありました。普段の本人は温厚で、冗談も言うくらいオープンマインドな人なのですが、その時は流石に怒られると思い、震えながら待ってました(笑)。到着するなりラフは、なぜこのコレクションを作りたいのか、みっちり1時間、熱心に話してくれたんです。「日本の素晴らしいアイデア(和柄)だけど、今僕が作ることに意味があるんだ」と。

──本人からコレクションを熱弁されるなんて。実際の反響は?

 結果的に素晴らしいコレクションで、人気も高かったです。「ああ、僕なんかの目線では到底及ばないな」と思ってしまったほどに。でも、ファッションデザイン、アントワープから巣立ったクリエイションとはなんたるか、そんなことを教わった出来事でもありました。

──日本におけるラフ・シモンズは、地方セレクトショップでも初期から取り扱っていたり、大きな市場だったのではないかと思うのですが、ブランドの成長を間近で見て、感じたことは?

 1995年のブランドデビューから日本市場は盛り上がっていて、売上の上位を占める市場でした。僕は後からその日本市場を担当するようになり、人気の高さを実感しました。「アディダス(adidas)」とのコラボラインでアジア市場全体も見ることになったのですが、後のダッドシューズトレンドの火付け役の一つとして、一気に中国や韓国も成長して。その中でもやはりラフは日本のことをすごく愛していると思いました。「I LOVE 東京」セーターを作って、来日もしてくれましたよね。

──ラフ自身のブランドは休止しているものの、現在は本人だけではなく、マチュー・ブレイジーやピーター・ミュリエといった“門下生”たちの活躍も目覚ましいです。石塚さんは彼らとも同僚になるのでしょうか...?

 二人とも、今となっては同僚と言うのをおこがましく感じるほどの大活躍されています。同じオフィスで働いていた頃、マチューもピーターも会うといつも気さくに話してくれたのを覚えています。ブランドの一端を担うものとして、ビアンカもそうですし、とても良いチームに恵まれているなと感じました。彼らが大抜擢された時はものすごく興奮しましたね。マチューのデビューコレクションにもラフは出席していましたが、そういう人情深さも彼の魅力だと思います。

「数字の話をしても数字は伸びない」 人間的なアプローチこそ必要

──ラフとの貴重なお話の数々をありがとうございました。ご自身の会社 ノースリバティーは、彼との仕事がきっかけで立ち上げたんだとか?

 はい、ラフと一緒に仕事を始める頃に立ち上げました。マルジェラやエドストローム時代にも出張でヨーロッパのデザイナーやブランドと話す機会があり、アジアや日本のことをあまり知らないな、とギャップを感じたんです。嬉しいことに素晴らしい才能に出会う機会がたくさんあったので、ラフ・シモンズもそうだし、彼らをサポートできることがあるはずだと。エージェントとして2011年に立ち上げました。

──セールスエージェントとして、ブランドと向き合う上で最も大切にされていることは。

 まず最初に、ブランドが持つフィロソフィーやアイデンティティ、どういうハートを持っているのか、とにかくヒアリングすること。そして、彼らが目指す方向を実現するために、どんなバイヤーやショップと繋げるべきか、どんな企画やイベントが必要かを考えます。どんなブランドとも二人三脚で一緒に歩くつもりでやっています。こうやって話してみると、全く特別なテクニックがあるわけではないですよね(笑)。

──人間的なアプローチを重視されているのですね。数字的な戦略やマーケティングは重要ではないのですか?

 勿論、僕らの知見としてローカルの知識や、何が必要かを擦り合わせていくことは必要です。でも、ファッションってデザイナーの熱量から生まれて、ものづくりの背景があって、とても人間臭いものじゃないですか。いかにビジネスであろうと、そこを切り離しては元も子もないだろうと思うんです。数字は大事、でもブランドにとって本質ではないというのも、ラフから学んだことですね。

──どんな経験があったんですか?

 彼は、僕に一度も数字の話をしてこなかったんですよ。前年比で売上が何パーセント伸びた、下がったみたいな話は一切なかった。言われたことは、「僕らに何が必要か」ということだけ。本当にそれだけです。一度、何故か聞いてみたら、「だって、数字の話をしても、数字は伸びないだろう?」と。本当にその通りで、あくまでもブランドとして何が必要なのか考えた先に、数字が付いてくる。だからこそ、草の根活動的に挨拶回りや直接のコミュニケーションで信頼を築くのが重要だと思うようになりました。

──ノースリバティーの取り扱いブランドは欧米が多いです。国や文化が違う人との取引は困難もあったのではないでしょうか。

 仕事を始めた時は「誰あんた?」みたいなことも多かったです。でも、結局はどんな仕事をしてきたか、見てくれる人たちに支えられましたね。僕は直接対話して溝を埋めていくのが好きなので、ヨーロッパでも、日本、中国、韓国でも可能な限り直接出向きます。ちょうど成長期にお世話になった「ジャックムス(JACQUEMUS)」も、マネジメントのトップを務めているジェローム・ヘルファー(Jérôme Helffer)と以前から知り合いだったので、日本を一緒に盛り上げて欲しいと声を掛けてもらいました。

日本ブランドが海外で戦うために、地道に「正しいファンを増やしていく」

──日本のブランド「ベッドフォード(BED j.w. FORD)」の海外セールスも担当しています。取引のきっかけは?

 以前山岸さん(ベッドフォード デザイナー山岸慎平)とイベントでお会いして、その時はおしゃれで熱い人だなぁという印象を受けました。その後、ヨーロッパ市場に本腰を入れると言うことでご相談いただいて、協業させていただいています。僕らがパリやヨーロッパの人脈があるので、ショー会場選びの相談でお手伝いすることもあります。

──ベッドフォードの前回のパリでのインスタレーション会場は、フランスらしい荘厳さと静かな空気が漂う邸宅のような場所で、メディア陣の間で話題でした(笑)。

 たまたま、僕らのビジネスパートナーの方が素敵な物件をお持ちで、山岸さんたちから、こういう雰囲気でショーがしたいと伺っていたので、提案させていただきました。

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──日本で実力があるブランドでも、海外市場の開拓は関税などもあり厳しい現状があります。石塚さんの視点からはいかがでしょうか。

 一概に言えることでは無いので難しいですが、僕が課題に感じるのは、サイズ感と価格です。日本の掛け率の考え方で海外の卸を狙おうとすると、それこそドリスよりも販売価格が高くなってしまいます。金額だけで語れるわけでは無いにしても、現地で無名のブランドがいきなり著名なブランドと同じポジションで戦えるかと言われたら、難しいですよね。

 ただ、この答えは非常にシンプルで、それは早い段階から世界のマーケットを相手にする運営体制を整えることです。最初からそこを見据えれば値付けの計算式も変えられますから。とはいえ、才能ある若手ブランドでも、運営や資金繰りはギリギリで行っているところが少なく無いことも理解しています。

──価格やサイズの問題は多くのブランドが直面します。それとは別に、日本のブランドが海外で戦うために必要なことは。

 これも僕の視点ではありますが、マーケティングの手法や目的はブランドそれぞれだと思っています。ラフがアディダスコラボを出したのも一種のマーケティングですし。イベントに顧客や著名なインフルエンサーを招待し、認知を拡大する手法もありますし、昨今のファッションショーにセレブやアイドルを呼ぶのも、その一環ですよね。

 例えば、僕らが山岸さんたちとしているのは、ショーやイベントを行うとなった時に、信頼できる人たちを招いて、正しいファンを増やしていくということ。現地の編集部に行って挨拶したり、営業したり、そういう地道な活動を続けていくことですね。

セールスの拡張としてのPR、アジア市場への目線

──セールスエージェントやマネジメントを軸に活動されてきた石塚さんですが、今年からPR事業をスタートされました。ここ数年のファッション業界の変化を踏まえて、どんな必要性を感じていたのでしょうか。

 セールスを続けていると、「売る」以前の段階、ブランドの文脈や空気感をどう共有するかも併せて重要になっていると感じていました。ブランド体験として伝えられるような場を企画する段階からサポートできたらという思いで、本格的にPR業務を始めることにしました。

──近年は単なる露出ではなく、ブランドの背景や思想まで含めて伝えるPRが求められています。セールスとPRの役割分担については、どう整理されていますか。

 役割は違いますが、切り離せるものではないですね。セールスは数字に直結する仕事で、PRはブランドの価値を中長期的に育てていく役割。PRだけが先行してもビジネスにはならないし、セールスだけで数字を作っても、ブランドの軸が共有されていなければ長く続かない。その両方を理解した上で設計することが重要だと思っています。

──海外ブランドから、日本市場でのリテール展開について相談を受けることも増えているそうですね。

 増えていますね。どの街で、どんな見せ方をするのかまで含めて考える必要があるなと。そうなると、セールス、PR、リテールを分けて考えるのは現実的ではありません。ホールセールで地方の優れたショップと組むことが、結果的に東京のリテールを強くすることもあるし、その逆もある。どう循環させていくかが大事だと思っています。

 東京にもオフィスを構えて、サンプル数の限りはありますが、PRでもお取り組みが叶ったブランドを常設したショールーム機能を備えます。逆にパリ・マレ地区には、我々が心から信頼出来るデザイナー、クリエイションを紹介する場として2026年にショールームを開設する予定です。

東京オフィスからの眺望

──どんなブランドを取り扱う予定でしょうか。

 クヴァドラ ラフシモンズや、「マグニバーグ(MAGNIBERG)」、「817 ブラン エルエヌティー (817  BLANC LNT)」、「マッティア ヴァン セヴェレン(Mattia Van Severen)」、ベッドフォードなど約10ブランドです。パリのショールームは単なる商談の場というより、ブランドの背景や思想を共有する場所にしたいと考えています。

マリナ・イーによるプロジェクト「エムワイ・プロジェクト(M.Y. project)」の展示会

Image by: NORTHLIBERTY INC.

──PR業務も担い、海外ブランドと日本、アジア、日本ブランドと海外を仲介する立場が強まっていきそうですね。今後の展望を教えてください。

 これまで、日本と欧米で積み重ねてきた成功も失敗も含めて、その経験はアジアの他の国でも活かせると思っています。短期的には、セールス、PR、リテール開発を横断的に設計できる体制をヨーロッパとアジアの間でしっかり作り、ブランドの成長をよりアクティブにサポートできるように整えていきます。

 その先には、アジアをひとつのマーケットとして捉え直す視点があります。日本、中国、韓国それぞれの美意識や審美眼を尊重しながら、他国のブランドの世界観とどう接続していくか。異国のファッションが現地でどんな広がりを見せるのか、ビジネスの仕組みだけではなく、ファッションクリエイティブの可能性や興味深さを僕達が体感し、架け橋として還元していきたいです。

最終更新日:

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