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Image by: デザイナーの田中大資
デビューから3シーズン目ながらも「Rakuten Fashion Week TOKYO 2022 A/W」で初のランウェイショーを開催した「タナカ ダイスケ(tanakadaisuke)」。デザイナーの田中大資は大阪文化服装学院卒業後、その才能を「ケイタ マルヤマ(KEITA MARUYAMA)」の丸山敬太に見出され同ブランドに入社。独立後は刺繍アーティストとして活動し、デビュー前ながらもさくらんぼの刺繍が施されたマスクやトートバッグがヒットするなど、幻想的かつロマンチックなブランドの世界観は数多くのファンを魅了してきた。タナカダイスケの勢いの裏には、運営会社であるパッチワークス代表取締役社長の長谷部啓介の存在がある。繊細なクリエイションからは想像ができないような野心を持つ田中と、「ブランド価値を下げたくないというのはエゴ」と冷静に現在のファッション市場を見つめる長谷部。二人三脚でブランドを運営する2人に話を聞いた。
田中大資
1992年大阪府生まれ。2015年に大阪文化服装学院ファッション・クリエイター学科ニットコースを卒業。在学中に第89回装苑賞のファイナリストに選出され、審査員を努めていた丸山敬太の目に留まり「ケイタマルヤマ」に入社。独立後刺繍アーティストとして活動。2021年春夏コレクションで自社ECのみで展開し、2021年秋冬コレクションに自身の名を冠したブランド「タナカ ダイスケ」を本格デビューさせた。
公式インスタグラム
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長谷部啓介
デザイナー丸山敬太の元で13年間にわたって「ケイタマルヤマ」の営業や生産業務を務める。2018年から株式会社パッチワークスの代表取締役社長に就任。2020年に「ケイタマルヤマ」事業を分社後、OEM事業をスタートさせ2021年自社コンテンツの1弾として「タナカ ダイスケ」がデビューした。
服飾専門学校に進学、そして留年。ブランド「タナカ ダイスケ」を立ち上げるまで
ーお二人の出会いは?
長谷部:上司と部下だよね。
田中:そうですね。僕が大阪文化服装学院を卒業した後に入社した「ケイタ マルヤマ(KEITA MARUYAMA)」の時からの付き合いです。
ータナカ ダイスケを擁するのは長谷部さんが代表取締役社長を務めるパッチワークス。
長谷部:元々は2018年にケイタマルヤマが独立した時に設立された会社です。そこからコロナ禍を経て、僕も色々なクリエイターにもっと出会いたくなったし、新しいビジネスモデルというのを生み出したい欲求が出てきて。「パッチワークスから丸山さんに独立してもらう」という形で2020年に「ケイタマルヤマ」事業を分社化しました。タナカダイスケは現在の運営体制になってから、自社コンテンツ第1弾として立ち上げました。
ー田中さんのファッションデザイナーになるまでのキャリアを教えて下さい。
田中:中学校卒業後は、インテリアや家具作りを学ぶ大阪市立工芸高等学校のインテリアデザイン学科に進学しました。インテリア、といいながらもオブジェばかり作っていましたね。
ーなぜインテリアを学ぶ学校に進学したんですか?
田中:インテリアに惹かれて、というよりとにかくものづくりがしたかったんですよね。ものづくりと言っても、絵などの平面的なものではなく立体的に何かを作りたいな、と。もし、大学進学のタイミングで「法学部に行きたい!」となってもいいように、塾にも通っていました。
長谷部:堅実だね(笑)。
田中:高校生くらいまでなら、ものづくりの可能性を模索するためにある程度将来のことを考えずにいてもいいかなって。
長谷部:「ものづくりをしたい」と思ったきっかけとかはあったの?
田中:手先が器用ということもあり単純に得意で。「これ通りに作ってみて」と言われれば忠実に再現できることができたんですよね。
ー高校進学後は大阪文化服装学院のスーパーデザイナー学科に進学。立体的なものづくりをしたいという欲求がファッションに向いた理由は?
田中:進路に悩み始めた高校3年生のある日、ふらっと立ち寄った本屋さんでファッションデザイナーのアレキサンダー・マックイーン(Alexander McQueen)を特集している雑誌「モードェモード(MODEetMODE)」を見つけて。「あ、これだ。これならできる」と思っちゃったんですよね。
長谷部:モードェモードってかなり硬派なコレクション誌だよね。
田中:アレキサンダー・マックイーンが亡くなった時に発売されたものだったので、デビューから当時までを振り返るような内容で彼が作ってきたものを全部吸収した気になっちゃって。「じゃあファッションだ、デザイナーだ」と。
ーそれまではファッションに興味はなかった?
田中:ミシンも触ったことなかったですし、自分が着る服もそんなにこだわりはなくて。古着屋さんで好きな柄を探すだけって感じでした。
長谷部:それだけマックイーンの衝撃が凄かったんだ。
ーファッションデザイナーを志した時、なぜ大阪文化服装学院を選んだのでしょうか?
長谷部:当時はまだスーパーデザイナー学科ってあんまり知られていなかったよね?
田中:そうですね。僕は4期生として入学しました。「ファッションデザイナーになろう」と決めた時、関西の中でも大きい学校というのもありましたが、カリキュラム的にも厳しそうで良いな、と。
長谷部:ストイックなところに惹かれたのはなんで?
田中:僕自身が結構ふわふわしている性格だから、そういうところでしめてもらった方が良いかなと思って。それに、「とにかく長時間ものを作りたい」という願望があったから、専門学校だけど4年間かけてじっくり学べる所も決め手でした。極論を言えば、自分が思い描いたものを作れる所だったらどこでも良かったんですけどね。
ー大阪文化服装学院のスーパーデザイナー学科は厳しく、入学当時いた学生も卒業時には半分以下にまで減ると聞きます。
田中:そうですね。進級条件が厳しいんです。僕も3年生から4年生に進学するための必要体数を製作することができなくてスーパーデザイナー学科の4年生に進級できませんでした。結局、ファッション・クリエイター学科ニットコースという違う学科に転科し、そのまま卒業しました。
長谷部:僕が大阪文化の先生から聞いたのは、田中くんはサボっていたわけではなく1体にこだわりすぎて「ルック数を5体製作する」という進学条件を達成できなかった、と。でもそれはものすごいクオリティだったそうです。
田中:進級はできなかったけど、スッキリはしているんです。体数が足りなかったにしろ自分が目指していたクオリティに仕上げることができたから。
ー進級ができないとわかった時は?
田中:辞めるつもりでした。辞めたとしても、結局ものをずっと作り続けられるならどの環境でも良いと思っていたので、バイトをしながらでもデザイナーを目指そうと。でも教務部長の杦山先生に止められて。杦山先生が「どうせ1年やるなら、別のことをやれば」とアドバイスを頂き「それもそうだな」と思って転科を選びました。
ー転科先である、ファッション・クリエイター学科ニットコースで取り組んでいたことは?
田中:学内に島精機製作所の横編機があり、パソコンでニットデザインをしてました。それでもスーパーデザイナー学科に比べたらカリキュラムはゆるくて。たくさんコンテストを受けましたね。
長谷部:スーパーデザイナー学科は個人プレーだけど、ファッション・クリエイター学科はグループでものを作っていくよね?
田中:そうですね。でも「こっちのほうがいいよね」とか言いながら、自分のやりたいことを突き通しちゃっていたから自分のコレクションのようだったかも。それを「いい経験だった」というと周りにいた子たちに失礼な気がするから、なんとも言えないんですけど。
丸山敬太に見出されて開けたファッションデザイナーへの道
ーコンテストをたくさん受けていたというニットコース在学時に第89回 装苑賞のファイナリストに選出。同アワードで審査員をしていた丸山敬太の目に止まり、卒業後は「ケイタマルヤマ」に入社。
長谷部:審査から戻ってきた丸山さんから「すごい子がいたから大阪文化に連絡して」と言われて。いままでずっと審査員をやられていますけど、そんなこと一度もなかったからびっくりしましたね。
田中:「卒業してもものづくりができるなら」「丸山さんのものづくりを近くで見てみたい」という興味本位で入社を決めました。
ーでも田中さんは入社して半年で退社されていますよね。
田中:丸山さんのものづくりを見ていたら自分でも作りたくなっちゃったんですよね。当たり前と言われればそこまでなんですけど、自分がデザインしたものでも「ケイタマルヤマ」として世の中には出てしまうことに違和感があって。「だったら自分でやろう。売れても売れなくても、自分がデザインした服は自分がデザインしたものとして出したい」と思って独立を決めました。
長谷部:僕は田中くんが辞めるときのことをよく覚えていて「今すぐ吐き出したい・物体にしたい何かがある」みたいなことを言っていたんです。もう20年以上ファッション業界にいる僕からしてみれば、デザイナーになるとしても会社に入って社会的なことを勉強し、様々なものづくりの段取りを身に着けてから独立するというのが常識的な考えだったんですけど、今思えば田中くんは平面にアイデアを残すことができない人だから、早くアイデアを物体にして脳みそから早く出したかったんだな、と。
田中:まさにそれで。手を動かすことでしか次のクリエイションには繋がらないという感覚はありますね。別に自分の生活やキャリアは関係なく「早くものにしたい」という欲求が強いのかな。デザイン画を描いてから作ることもほぼ無いですし。
長谷部:「思い立ったらすぐやる」というのが田中くんのやり方なんだろうね。だから今一緒に仕事をしていてもすぐクリエイションが出てくる。当時は「ちゃんと勉強してからの方がいいんじゃないか」とも思いましたが、その人にはその人に合ったクリエイションの作り方があるから、今思うと別にいらなかったんじゃないかなと。
ーデザイン画を描かないとのことですが、何からアイテムを作り始めるんですか?
田中:材料探しの中で見つけたモチーフですね。それが実際にコレクションルックとして使うかはさておき、元々あるモチーフを組み合わせて一度刺繍で作ってみたり、バラのモチーフを探してきてそれを自分好みに作り直して手を動かしながら考えます。
長谷部:例えば、バッグに付いているチャームの部分がモチーフとして上がってくるんですよ。
ーバッグとして最初から出てくるわけではないんですね。
長谷部:そうですね。僕たちは結局受注生産なのでロットとの戦いがあるんです。縫製ロットだと力ずくで60枚でも3枚でも作るんですが、バッグ自体の最低ロット数はどうにもならない。でも、後からモチーフをのせられるような仕組みだったらバッグ自体も最低ロット数で用意することができる。Aというモチーフで20個、Bというモチーフで30個作ればロット数はこなせるんですよね。
田中:僕はモチーフを考えて、どれにのせるかを考えるだけでいい。ちなみにこのバッグに使われているモチーフ「ウィングビュー」は最初イヤリングとして出したんです。
長谷部:ウィングビューのモチーフを使って田中くんがバッグに落とし込んでくれました。
田中:大喜利に近いですよね。「バッグという土台があります。このモチーフはどう調理しますか?」というオーダーに答える。それは結構好きなんですよね。
ーケイタマルヤマ退社後、ブランドとしてデビューするという提案はどちらから?
長谷部:僕からです。僕は田中くんはアーティストとして認知していたところがあったんですが、彼が作った服を何着か見た時に「刺繍作家としての軸がありながらも服もやっているのか」と衝撃を受けて。
田中:長谷部さんに「この作った服どうするの?」と聞かれて「いや、そんなに考えていないです。作りたいものをただ作っただけで」と(笑)。
長谷部:おそらく、さくらんぼ刺繍のマスクがSNSで話題を集めたことでお小遣いが入り、そのお金で何体か服として具現化できる、という彼なりの楽しみだったんだと思うんです。それはそれで幸せそうだったんですけど「ファッションデザイナーにはなりたくはないのか?」と声をかけました。
田中:声をかけていただいてからはすごくクイックで。お話をいただいた6ヶ月後ぐらいには展示会を開き、本格デビューでしたね。
長谷部:今までは自分のお小遣いの中での「楽しみ」として造形物を作っていたけど、お小遣いの管理は僕がすればいいわけで。限りはあるけどお金のことはあまり気にせずに、クリエイションをしてみてください、という提案をしました。うまくそこはマッチングしたのかな、と。
田中:お小遣いの中ものづくりを楽しむことはおもしろくもあったんですが、予算の関係上、どんなにモチーフやアイデアが思い浮かんでもデザインに対して1色しか作れなかった。だから、色展開、モチーフ違いの展開ができる今の状況はありがたいなと思っています。
アーティストとしての信念とビジネスとしての理想のバランス
ー田中さんは「ものづくりをしたい」という欲求が強い印象ですが、ビジネスとして成り立たせることをストレスに感じたりしませんか?
田中:感じますけど、ここで結果を出さないとそこまでの人ですよね。僕は自分に期待している部分があって、自分にできることはもっと大きなことなんじゃないかなと。ファッションデザイナー・刺繍作家としての自分の才能を信じているんです。それに長谷部さんが、作りたくて作っているものを許してくれるから。言われたものも作れば、作りたいものを作っても見逃してくれるかな、と。
長谷部:でも、実際こちらが指示を出して作ってもらうことなんてないんですよ。たしかに立ち上げ当初は、もっとMD(商品化計画)を組んだほうがいいかなと思っていましたが、そうじゃないな、と。
ーどうして方針転換をしたんでしょうか?
長谷部:彼の「ものを作り続けることが幸せ」というポイントを守れば、自然とブランドも大きくなると思ったからです。やっぱり田中くんがずっと針や糸を触っているのを見ると「幸せそうだな」と思いますし、その幸せポイントが産みの苦しみになってしまったら、おそらく顧客も幸せにならないと思うので。田中くんにとっての幸せはお金や地位ではなく、やりたいことが増えたり新しい造形を作ることだと思うし、彼が夢中になって作った大量のモチーフの中にこそビジネスチャンスがある、と。もちろん予算はあるけれど、ある程度無意識の中で作り上げられたもののほうが魅力的で、その中から核となるものを据えてコレクションを構成していったほうがスムーズなんですよね。
田中:僕自身も「ブランドのために」や「待ってくれているファンの方のために」というより、自分のために作りたいものを作っている感覚の方が強いです。
ー「タナカダイスケ」といえば、デビュー前から熱量の高いファンを抱えている印象があります。
長谷部:実は昨年の4月に行った最初の展示会以降はバイヤーの人にあまりお声がけをしていなくて。というのも本格デビューと同時に自社ECで一般のお客さんから直で受注を取っていて、そっちの母数の方が圧倒的に多かったんですよね。それは田中くんがデビューする前の活動を知っているファンの方の熱量で、本格デビューを楽しみにしてくれていた人の可視化でもありました。
タナカ ダイスケの信念「ブランド価値を下げない=商品価値を下げない」
ータナカダイスケのアイテムはセールに掛けられませんよね。
長谷部:先程の話の続きになるんですが、ポップアップストアを繰り返すことでフォロワーはどんどん増えるし、受注もどんどん増えていく。卸先に買い取ってもらわない限りはセールにする必要もないし、これは良い効果だなと思って自社でどんどん売っていくというやり方を今現在はしています。
ー「良い効果」とは具体的に?
長谷部:ファッション業界のマーケットがどんどん縮小される中で、ブランド価値が毀損されることは命とりになると思うんですよね。僕はセールをすると、如実にブランド価値は落ちると思っていて。ファンが増えるというメリットはあるかもしれないけど、年々価値が落ちていくものだと思っています。
田中:ビジネスのことは長谷部さんにお任せしちゃっていますが、個人的には「セールをするとファンが増える」という考え方にも疑問が残ります。実際、そこで関心を持ってくれるファンってどんな人なんだろうな、と考えてしまう。
長谷部:ただ「ブランド価値を下げたくない」というのは僕のエゴなんですよね。本質は買ってくれたお客さんが持っている商品の価値を下げないこと。「私が持っているアイテムは一度もセールにならず、常にプロパーで再販売されているし、もしかしたら値上げするかも知れない」という顧客の気持ちを保てることこそが、ブランド価値なのかなと。
ーバイヤーからのオファーもあると思いますが?
長谷部:そうですね、数社からオファーをいただくようになりました。僕たちも新しいお客さんにブランドを知って貰える機会だけど、やっぱりセールはしたくないから、買取は今の所お断りしています。「ブランド価値を下げない=商品価値を下げない」という考え方をベースにした新しいビジネスモデルの構築を小売さんと模索している最中です。
田中:せっかくいい形でスタートできたし、僕としてはより良いクリエイションを作っていくだけだなと。商品価値を高めるためにはそもそもそれが良いものである必要があるし、より良いものを更新して作ることがブランド価値向上に繋がるかな、と。あとはそれを「長谷部さん、うまくやってね」という感じです(笑)。
長谷部:最近、映画「マルジェラが語る"マルタン・マルジェラ"」を見たんですが、劇中に映っていたマルジェラの手を田中くんの手に見えて。彼は、大きい資本が入ってデザイナーを辞めてしまったけど「僕にはもうシーズンも何も追われるものはない」と話しながら自由に針と糸を持つ彼の手がとても幸せそうだった。田中くんもやっぱりものを作っている時が一番幸せだと思うし、パーツを買いに行ったり、刺繍をする時間がなくなるのは不幸なことだろう、と。それは死ぬまでやったほうが良いだろうし、それを活用しながらビジネスとやってくのが一番いい。そこから生まれる素晴らしいものというのが会社としても必要だと考えています。
(聞き手:古堅明日香)
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