

今年4月、ファッションスクールの名門、ベルギーのアントワープ王立芸術アカデミーで学ぶ日本人学生 島田響さんのもとに、授業料の改定を知らせるメールが届いた。内容は2026-2027年度から、非EEA圏*出身の新入生を対象に、年間授業料を2万5000ユーロ(約465万円)へと、従来の約3倍に引き上げるという通知だった。進む学費高騰や円安の影響によって、ファッションに限らず海外で学ぶためのハードルは大きく変わりつつある。「払える人だけ」が学べる時代になりつつあるのか。FASHIONSNAPの「次世代クリエイター」特集ラストとなる本記事では、アントワープの学費高騰を起点に、ファッション教育を取り巻く現状を考える。
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*EEA(欧州経済領域)は、EU加盟国にアイスランド、リヒテンシュタイン、ノルウェーを加えた地域。非EEA圏は、それ以外の国・地域を指す。
*日本円は2026年8月28日時点の為替レート、1ユーロ=185.95円で換算。
復学を前に届いた学費改定の知らせ
現在ファッション科に在籍する島田さんは、少数精鋭で知られる狭き門をくぐり2024年に入学。1年間の休学期間を経て、今年9月の復学を目指して準備を進めてきた。アントワープを選んだ理由は、服作りの技術だけではなく、デザインのコンセプトや思考のプロセスそのものを深く掘り下げる教育環境に魅力を感じたからだ。
もう一つ、現実的な理由もあった。世界的に知られるファッションスクールでありながら、ロンドンやニューヨークなどの有力校と比べ、学費が比較的抑えられていたことだ。
島田さんによると、入学当初の授業料は年間約150万円。加えて、ベルギーでの滞在資格を得るための資金証明として、生活費に相当する金額をあらかじめ預け入れる「ブロックドアカウント」に約150万円が必要で、渡航時には計約300万円を準備したという。
ところが、休学を経て2年次で復学しようとしていた矢先、2026-2027年度から非EEA圏出身学生の学費体系が大きく変わるという通知を受けた。アントワープ王立芸術アカデミーなどを運営するアントワープ応用科学芸術大学は、対象となる非EEA圏出身の新入生の年間授業料を2万5000ユーロ(約465万円)に設定。2025-2026年度の授業料は60単位履修の場合8631.60ユーロ(約161万円)だったため、約3倍の水準となる。島田さんを含む在学生には経過措置として年間1万3500ユーロ(約251万円)の料金が設けられている。
背景にある政府の方針転換

アントワープ王立芸術アカデミーの旧校舎、正門
Image by: 島田響
学費引き上げの背景にあるのは、ベルギー北部で教育政策を担うフランデレン政府による高等教育への補助金制度の変更だ。フランデレン政府は、教育分野ごとの資金区分において、非EEA圏出身学生が2%を超える部分に対する公的補助を縮小する方針を打ち出した。
多くの名だたるデザイナーを輩出してきた名門ファッションスクールには毎年ヨーロッパだけでなく、世界各国から学生が集まる。現にファッション科では学生の約40%が非EEA圏出身を占めているという。国際的な学生を多く受け入れてきた教育機関ほど大きく影響を受けるというわけだ。
学校側は今回の授業料引き上げについて、フランデレン政府による非EEA圏学生への補助縮小を受けたものだと説明。教育の質と国際性を維持するため、減少する公的資金分を授業料で補う必要があるとしている。
学生側からは反発が広がった。アントワープ王立芸術アカデミーなどでは「Who Can Pay Can Stay(支払える人だけが残れる)」をスローガンに掲げた抗議活動が始まり、4月から5月にかけて行われた学生集会には、EEA圏・非EEA圏を問わず多くの学生が参加したという。
「学費の安さ」もアントワープの魅力だった
アントワープ王立芸術アカデミーを長年見てきた一人が、ユナイテッドアローズの栗野宏文上級顧問だ。同氏は1996年から2002年まで7年連続で同校の卒業コレクションの審査員を務め、その後も定期的に同校との関わりを持ってきた。
同校が世界的なファッションスクールとして注目を集める大きなきっかけとなったのが、1980年代に台頭した「アントワープ・シックス*」の存在だ。ドリス・ヴァン・ノッテン(Dries Van Noten)やアン・ドゥムルメステール(Ann Demeulemeester)ら卒業生が国際的に活躍したことで、アントワープという街と同校の名は世界のファッションシーンに広く知られるようになった。
*アントワープ・シックス:アントワープ王立芸術アカデミー出身で、1980年代後半に国際的な注目を集めたベルギー人デザイナー6人の総称。ドリス・ヴァン・ノッテン、アン・ドゥムルメステール、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク、ダーク・ビッケンバーグ、ダーク・ヴァン・セーヌ、マリナ・イー。
その評価を次の世代へとつないだのは、ファッション科を率いたリンダ・ロッパ(Linda Loppa)を中心とする教授陣だった。栗野上級顧問が審査員を務めていた時代には、アントワープ・シックスの一人で、学長も務めたウォルター・ヴァン・ベイレンドンク(Walter Van Beirendonck)やパトリック・デ・ムンク(Patrick De Muynck)らが教鞭をとり、技術面を支える教員も充実していたという。同氏は当時を「アカデミーの黄金時代だったのでは」と振り返る。
こうした教育環境に惹かれ、日本からアントワープを目指す学生も次第に増えていった。栗野上級顧問は、「アントワープがこれほど注目されるようになったのは、『アントワープ・シックス』の功績と、もう一つ、学費が安かったからでしょう」と話す。
1990年代当時、日本から海外でファッションを学ぶこと自体が現在ほど一般的ではなかった。その中でアントワープは、独自性の高いクリエイションと充実した教育環境で世界的に知られ、入学だけでなく進級や卒業まで高い水準が求められる一方、費用面では比較的挑戦しやすい選択肢の一つだった。以降、日本からも学生が渡り、「ユイマ ナカザト(YUIMA NAKAZATO)」の中里唯馬、「ミキオサカベ(MIKIO SAKABE)」の坂部三樹郎、「kolor(カラー)」のクリエイティブディレクターを務める堀内太郎ら、現在も国内外で活動するデザイナーを輩出してきた。
「経済力」が進学の条件に?
今回の約3倍の値上げについて、栗野上級顧問は「学費は本来高額であってはならない。将来の産業を担うデザイナーは特殊技能を持つ人材であり、優秀な人が選抜されるシステム自体は良いことですが、そもそも経済力がなければ入学できないというのはおかしな話だと思います」と疑問を呈している。
さらにはこの状況を、現在のラグジュアリー市場に重ねる。かつては少し背伸びをすれば手が届いたものが、価格上昇によって、購入を検討できる層自体を限定するものへと変わっている。同じようなことが教育にも起こり始めているのではないか、という指摘だ。
世界各地から異なる文化や価値観を持つ学生が集まり、互いに刺激を受ける環境も、アントワープの教育を特徴づけてきた要素の一つ。経済的な理由で出願や進学を断念する学生が増えれば、学校側もさまざまな才能を受け入れる機会を失うことになる。栗野上級顧問も、「世界中から優秀な人材が集まらなくなる可能性があり、それは学校にとっても機会損失と言わざるを得ません」と話す。

The Royal Academy of Fine Arts 26SS ショー
Image by: ©Launchmetrics Spotlight
10年前の1.5倍以上、進む留学費高騰
こうした学費高騰は、アントワープだけで起きているわけではない。
文化服装学院などを運営する学校法人文化学園 国際交流センターによると、欧米のファッション系教育機関では、10〜15年前と比較して授業料が1.5倍以上に上昇。多くの学校が毎年、数百〜数千米ドル・英ポンドのペースで値上げを続けているという。
現在の年間授業料は学校によって大きく異なり、米ニューヨークのパーソンズ美術大学(Parsons School of Design)の学士課程は約6万4000米ドル(約1024万円)、英ロンドンのセントラル・セント・マーチンズ(Central Saint Martins)の修士課程は約3万5000英ポンド(約752万円)。一方、フランス・パリの専門学校では年間約1万2000ユーロ(約223万円)で学べるコースもあり、国や教育機関によって価格差は大きい。そこに、日本人学生の場合は近年の円安が重なる。
同センターは、「生活費自体の現地での変化よりも、近年の歴史的な円安による影響の方が深刻」と説明する。実際、相談に訪れる学生の多くが奨学金に関する情報を求めるようになり、「費用を抑えられること」を前提に進学先を検討するケースが増え、留学先も欧米だけでなく、比較的費用を抑えられるアジア圏や中欧などを候補にする学生もいる。
また、円安と授業料の値上げを理由に海外留学を断念する学生は「著しく増えている」といい、2025年度から2026年度にかけても、海外校から合格通知を受け取ったものの、経済的な理由から最終的に進学を辞退した学生がいたという。
奨学金は高騰する留学費用に追いついているか
海外留学にかかる費用を補う手段の一つとして、多くの学生が頼りにするのが奨学金だ。授業料や生活費の一部を補う制度として重要な役割を担っている一方、留学費用が高騰するなか、学生が海外で学ぶ機会を十分にサポートできているのだろうか。
同センターは、文化服装学院独自の留学支援奨学金制度を設けているものの、「昨今の費用高騰に対しては十分とは言えない」という。多くの奨学金制度は生活費の一部補助にとどまり、最も負担の大きい授業料をカバーするには至っていないのが現実だという。特に課題となるのが、ファッション分野や、学位取得を目的としない専門学校への留学などに利用できる外部奨学金の少なさだ。
年間の授業料だけで数百万円に達し、さらにファッション分野では材料費や制作費も必要になる。奨学金が存在していても、留学費用全体を賄えるケースは限られる。
島田さんも同様に、資金工面の壁にぶつかった一人だ。復学費用を募るクラウドファンディングを立ち上げ、当初復学にかかる250万円を目標に設定。投資資金を募るリアリティ番組「令和の虎」に出演し、100万円の出資を受け目標金額を達成した後も、作品制作費を含む500万円をネクストゴールに設定し、新学期が始まる直前まで支援を募った。その結果、最終的に目標に対して159%を達成し、当面必要な資金の目処が立ったことから、9月から始まる新学期より復学する予定だという。
しかし、すべての学生が島田さんのように、自ら発信し、クラウドファンディングや外部からの支援によって数百万円規模の資金を集められるわけではない。留学の機会が、本人の経済力だけでなく、資金調達の能力や発信力にまで左右される状況は、教育支援のあり方を考えるうえでも軽視できない問題だ。奨学金をはじめとする既存の支援制度が、増大する留学費用にどこまで対応できるのか——。個人の努力に頼るだけでなく、学びたい学生が利用できる支援の選択肢をどのように広げていくかが、改めて問われている。
海外で学ぶ機会をどう支えるか
一方で栗野上級顧問は、海外留学のハードルが高くなれば、日本国内の教育機関の価値が相対的に高まる可能性もある、と期待を寄せる。文化服装学院をはじめ、デザイナーの山縣良和が主宰するファッションスクール「ここのがっこう」、大阪を拠点に実践的なファッション教育を行う「ヴォートレイル ファッション アカデミー」などを挙げ、「優秀な人材が国内の学校を選ぶようになるのであれば、それはそれで良いことかもしれない」と語る。
海外へ行かなければ優れたデザイナーになれないわけではない。それでも同氏は、若い時期に異なる文化や価値観の中に身を置く経験には意味があると考えている。「どんな形であれ、一度は日本を出て世界を見る経験は非常に重要です。海外から日本を見つめ、世界の中での日本の立ち位置を知ることが、大きな財産になります」と、海外経験を通じて視野を広げることの重要性を訴える。
授業料の上昇に加え、円安や生活費の高騰が重なり、日本から海外でファッションを学ぶことは、以前よりも大きな経済的負担を伴うようになった。世界的に授業料や生活費の上昇が続く中、学費が以前の水準まで戻ることは考えづらい。
海外で学ぶ選択肢を経済的な理由だけで諦めないために何ができるのか。教育機関や奨学金制度を含め、学生を支える仕組みそのものを改めて考える段階に差しかかっているのかもしれない。
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