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アトモス代表・本明秀文の半生 資金300万円から390億円企業に育て上げた「原宿ドリーム」

本明秀文氏
本明秀文氏

 アメリカのスニーカー小売大手フットロッカー(Foot Locker)が、「アトモス(atmos)」を3億6000万ドル(日本円で約394億円)で買収した。スニーカー業界を賑わせたニュースを受け、アトモスを運営するテクストトレーディングカンパニーの代表 本明秀文(ほんみょうひでふみ)氏の元には「原宿ドリームだ」という声も多く寄せられたという。

 会社設立から約25年。原宿を、そして日本を代表するスニーカーショップを作り上げた同氏は、どのように原宿ドリームを掴んだのか。資金300万円でスタートしたビジネスを一代で育て上げた本明氏の半生を振り返る。

アトモス フットロッカー

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「社会人の常識がないからもっと学んだほうが良い」唯一行った面接は門前払い

 1969年生まれ。四国の高松で生まれ、中学生の頃から東京で過ごす。高校を卒業後は一年の浪人を経てアメリカの大学へ進学する。

「高校生の頃は大学へ行こうとは考えていなかったので勉強もせず、プラプラ遊んでいました。卒業後もそんな生活を送っていたら、見兼ねた親父と母ちゃんに『勉強をする気がないならアメリカに行け』と言われて、オハイオのシンシナティの学校に進学しました。ただ、うまくいかず。同級生から急に『ヘイ ジャップ』と言われたことで喧嘩をしてしまい、寮に住んでいたんですが、そのせいで寮に住めなくなってしまって。なので、フィラデルフィアにあるテンプル大学に入り、そこを卒業しました」

 就職活動では唯一面接に行った企業で「あなたの実力では雇えない」と門前払い。父の知人の紹介で繊維商社のカキウチに入社する。

「金儲けをするならお金を扱う職種が良いと思っていたので、金融で働こうと思いました。唯一、面接に行ったのがスタンダード&プアーズ(Standard & Poor's)。当時の部長が面接してくれたんですが、『あなたの実力では雇えない』と言われてしまいました。性格が横暴なところもあり、暑くて背広を脱いで行っていたので『社会人の常識がないからもっと勉強したほうが良い。大学院へ行きなさい』と、結果は全然ダメで。それで、親父が生命保険会社のMOF担で、大蔵省の管轄だったんです。当時は大蔵省の審議官だった杉井孝さんと親父の食事会に、よく連れて行ってもらっていました。杉井さんから『お前みたいなやつ雇ってくれるところないだろうから俺の友達のところに入れてやる』と紹介してもらい、繊維商社のカキウチに入りました」

テクストトレーディングカンパニーのオフィスで話す本明氏
テクストトレーディングカンパニーのオフィスで話す本明氏

 しかし、カキウチは約2年で退社。先輩からの提案でフリーマーケットへ行くことに。そこで、ビジネスチャンスを見つける。

「カキウチでの仕事は面白いなと思っていたんですが、人間関係にあまり恵まれなかった。喧嘩をして、部署異動を命じられたり。もう会社にいる意味がないかなと思って約2年で退職しました。ただ、カキウチで働いてた時に、先輩から『本明はこの会社で働いててもうまくいかないだろうし、俺がB品を売ってやるからフリーマーケットで売ってきなよ』と提案してもらい、製造過程で出たB品のスラックスなどをたくさん売ってもらって毎週のようにフリマに売りに行きました。同じくフリマで物を売ってる人たちから代々木公園のフリマが良いという話を聞いたので、代々木公園に行ってみるとアメリカに住んでいた頃に10ドルで売っていたスニーカーや古着が4万円ぐらいで売られていたんです。すぐに『これ儲かるやん』と思いました」

資金300万円で1年目から年商7億5000万円。注目を集め、あの企業から声がかかる。

 アメリカで買い付けてきたアイテムを日本で売る。300万円の資金で始めたビジネスが1年で約7億5000万円を売り上げた。

「会社を辞めたのは1996年、27歳の時。その年に1年間で100日ぐらいはアメリカへ行っていたと思います。資金は僕が75万円、大学時代に知り合った妻が75万円、そして母ちゃんが150万円を出してくれて、計300万円。上野のお店に卸したり、フリマで販売したり、原宿のジャンクヤードに3坪ぐらいの「チャプター」というお店を出してそこでも販売していました。渡米するたびに徐々に買い付けの量を増やしていき、1年目から7億5000万円ぐらい売れたんです。しかも当時は、僕と妹、妻、たまに母ちゃんが手伝ってくれるという4人で回していましたから。途中から高校の同級生でプラプラしていた三上という友達も手伝ってくれることになって。初期メンバーの4人+三上は黄金メンバーです。ずっと休みなしで働いていた。本当に情熱をかけて金儲けに取り組んでいましたね」

 翌年の1997年に株式会社テクストトレーディングカンパニーを設立。ショップ「チャプター」は軌道に乗り、注目を集める。

「チャプターは一世を風靡したと思っています。それぐらい本当によく売れていましたから。スニーカーが5割ぐらいで、もう半分はデニムや古着、スヌーピーの宇宙服を着た人形とか日本で売れそうだなと思う物を何でも売るという感じ。今でも僕と同世代ぐらいの人はアトモスよりもチャプターが好きと言ってくれる人がいます。チャプターがめちゃめちゃ売れたから裏ダンク※が出てきたと言われているぐらい人気がありましたね」

※裏ダンク:1999年に日本から世界へ向けて発信する限定プロダクトとして販売されたボディのカラーを反転させたナイキの「ダンク」。

 会社設立から3年後の2000年にスニーカーショップ「アトモス」をオープンする。ロゴは藤原ヒロシ氏がデザインした。

藤原ヒロシ氏が手掛けたアトモスのロゴ
藤原ヒロシ氏が手掛けたアトモスのロゴ

「チャプターの話を聞きつけたんでしょう。ナイキから声がかかって正規販売をできることになったので、正規販売店のアトモスをオープンしました。当初はヒロシさんと僕が何か一緒にやるという話だったので、ロゴはヒロシさんが作ってくれました。でも僕は現金主義で、格好つけるのが苦手というか。仕掛けてどうのこうのしようっていう商売は得意じゃない。ビジネススタイルが違ったので結局一人で始めることにしました。僕は所謂『裏原』と言われる人たちとは合わないんだと思います。今になって銀行の人と話していると、当時原宿辺りでビジネスが成功して売り上げが10億円ぐらいになると皆、口を揃えて『ベンツのゲレンデを買う』って言っていたんですって。僕はあまりそういうことに興味がなかったんですよね。しかも、大体がその後に売り上げが落ちるらしいですし」

「人生で一番記憶に残っているのはチャプターを閉めた日」

 アトモスをオープンした2000年、チャプターを含め会社全体で20億円程度に売上を伸ばす。しかし、3年後の2003年にチャプターを閉店する決断を下す。

「正規販売店を持っていながら、平行輸入店をやることはメーカーに良く見られない。正規販売が事業として成長したので、正規販売一本に絞るためチャプターを閉店することにしました。僕がこの商売をやっていて、人生で一番記憶に残っているのはチャプターを辞めた日。これが最後のチャプターだなと思いながら見た景色は今でもずっと覚えているし、一番心に残っています。今は頭を使ったり、喋ったりはするけど、肉体を使うことがあまりないんですよ。一番汗をかいたのはチャプターだから。靴の箱が倒れてきて、膝の骨を折ったこともありました。でも、骨を折ってまず何を気にしたかというと、ギブスをはめて荷物の整理ができるかどうか。それぐらい一生懸命だったんです」

 正規販売に事業を絞り、再スタートを切った。その後、売上は20億円前後で上下を繰り返す。

「だいたい20億円ぐらいの売り上げになると、飽きるというか。もういいやとなって少し下がる。そして、また本腰を入れて上がっての繰り返しでした。20億円の売り上げがあれば、ある程度生活には困らないし、少し満足してしまっていた部分があるんだと思います」

次のページは、母からの言葉を機に、売上はどんどん伸びていく。

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