第3話からつづく——
LVMH傘下となった「セリーヌ(CELINE)」の社内で落ち着かない空気を感じていた中、販売と店舗運営の実力が評価され、「ジョルジオ アルマーニ(GIORGIO ARMANI、以下アルマーニ)」から上司とともに転職の誘いを受けた秋山恵倭子。多くの顧客を抱える秋山は悩むも、転職を決意。他ブランドからいきなり路面店のトップに着任した2人は周囲から反感を買うが、すぐに実力を発揮しチームを率いるようになった。しかし、秋山が次第に1店舗のみを担当することに物足りなさを感じ始めた頃、今度は「プラダ(PRADA)」から声が掛かる。——BRUSH代表取締役会長を務め、販売の極意を熟知した店舗運営コンサルタントの秋山が半生を振り返る、連載「ふくびと」販売のエキスパート 秋山恵倭子・第4話。
「アルマーニ」に転職、すぐに実力を発揮
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アルマーニから心斎橋の路面店オープンに際して転職の声が掛かった時、私はセリーヌで顔と名前がわかる顧客様を約400人抱えていました。すぐにアルマーニのお店に行ってウィンドウから洋服を見ながら、商品が顧客様にフィットするかどうかを確かめた。それで、「自分のお客様全員に自信を持ってアルマーニの商品をご紹介できる」と確信できたので、思い切って行くことに決めたんです。
アルマーニはオートクチュールラインも展開している格式の高いブランドなので、天王寺さんが店長、私がドンナのマネージャーとして入った時、「おすすめするコーディネートがアルマーニらしくない」など、ブランドに馴染むのに苦労したことを覚えています。でも、やはり販売は実力がものを言う世界。私たちはすぐに実力を発揮し、スタッフの心を掴むことができました。
セリーヌ時代の多くの顧客様がアルマーニにもご来店くださったので、異動してすぐに売上は全国トップ10入り。セリーヌ時代に信頼関係を築いた多くの方に変わらずご愛顧いただけたことはとてもありがたかったですし、誠意を持って接すればお客様は人に付くということを実感できた経験でもありましたね。
ただ、当時のアルマーニはウオモ(イタリア語で「男性用」「メンズ」の意)全盛の頃。ウオモは、名だたる芸能人やスポーツ選手、政治家をはじめ一般層にも人気が広まり、飛ぶ鳥を落とす勢いで売れていたし、ブランドロイヤリティの高いお客様も多かった。一方で、ドンナはまだ知名度や人気が低く、価格も高額だったため、数字を作るのは簡単ではありませんでした。しかも、天王寺さんの姿勢はセリーヌ時代と全く変わらなかったので、そのスパルタ教育に一切の妥協はなく、徹底的な厳しさと売上のプレッシャーに音を上げるスタッフもちらほら見受けられました。
そうして2年が過ぎた頃、私は1店舗に集中するアルマーニでの日々に、次第にもどかしさを感じるようになっていました。セリーヌ時代に店長を務める傍ら、売上の悪い全国の店舗を飛び回っていた時、たくさんの人に関わって良い影響を与えられることに、やりがいを感じていたことが忘れられなかったのです。「またそういう仕事ができるようになりたい」と思っていた矢先に声を掛けてくれたのが、当時プラダ・ジャパンの社長だった青木千栄子さんでした。
「これは女性が着たい服」商品に魅せられたプラダでの苦悩
青木さんから頼まれたのは、パーソネル(人事部)として、全店のスタッフの指導と“できる店長”を作ること。2001年当時のプラダは放っておいてもナイロンバッグが飛ぶように売れていたものの、まだウェアの売れ行きは今ほどではなかった時代。店長たちを育成して、お客様を作って、ウェアの売上を伸ばすというのは面白そうだと思いました。
でも実際にお店を見に行ってみると、接客について多くの課題が見えてきて「ここはちょっと違うかな」と感じてしまったのです。お断りの返事をしようと、プラダのオフィスに出向きました。「社長は前の予定が10分ほど押している」ということで、ショールームで待つことに。そこで並んでいるサンプルを手に取って見ていたら、断ろうと思っていた気持ちが一気に揺らぎました。オートクチュール並みのクオリティに圧倒されてしまったからです。「プラダ」「ミュウミュウ(MIU MIU)」「プラダスポーツ(PRADA SPORTS)*」があって、洋服から靴、バッグまで全て揃っている。しかも時代にすごく合っていましたし、「これは男性が女性に着せたい服ではなく、女性が着たい服だ」と思いました。
*1997年にスタートしたプラダのカジュアルライン。2018年からは「プラダ リネア・ロッサ(PRADA Linea Rossa)」として展開。
純粋にクリエイションに心惹かれる気持ちが生まれてきたと同時に、「これほど高感度な服を売るには、接客力をかなり上げる必要がある」と思った。だからこそプラダに行くことに決めました。でも、プラダで過ごした3年間の日々は、正直辛かったですね。
当時のプラダは過渡期だったので、まだ社内が混沌としていて人の入れ替わりも激しかった。短期間でエフマイアミ、IPIジャパン、プラダ・ジャパンと運営企業が変遷したためにそれぞれの会社のやり方が残っていたので、統一したオペレーションを定着させることも難しくて。しかも、「店舗全体を見てほしい」と言われていたものの、実際には銀座の店舗立ち上げに携わった後は採用面接が中心で、店舗や店長の育成はほとんどできなかったんです。だから私がプラダにいる間にできたことは、今でも使っているパーフェクトな予算管理表を作ったことくらいかもしれません。
私が「人にはできない自分にしかできないことは何か」と改めて考えた時、それはやはり「店舗の運営をすること」「お客様を作ること」「店舗を運営できるスタッフを作ること」でした。私には強い店を作ることしかできないし、それがやりたいと思ったので、プラダを辞めることに決めたんです。——第5話につづく
第5話「50代で決断、ジュエリーへの転身」は、11月22日正午に公開します。
文:佐々木エリカ
企画・制作:FASHIONSNAP
【連載ふくびと】販売のエキスパート 秋山恵倭子 全7話
第1話―「私にはこれしかない」
第2話―「よっしゃ、ここから人生始まったわ」
第3話―強烈スパルタ教育のセリーヌ時代
第4話―自分にしかできないことは何か?
第5話―50代で決断、ジュエリーへの転身
第6話―40年来の顧客、形見分けのエルメス
第7話―販売員の地位と価値向上を目指して
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