
Image by: FASHIONSNAP
ビームス(BEAMS)が、創業50周年を記念したトークイベント「PUNK&EDUCATION」を開催し、藤原ヒロシ、「リトゥンアフターワーズ(writtenafterwards)」デザイナー 山縣良和、「ハイアーマガジン(HIGH(er) magazine)」編集長 haru.の3人が登壇した。ファシリテーターは、「フェルメリスト ビームス(Vermeerist BEAMS)」のディレクター 犬塚朋子が務め、会場にはビームスの設楽洋 社長も姿を見せた。世代もジャンルも異なる3人が、「パンク」と「教育」という一見相反するテーマを起点に、ファッション、メディア、そしてAI時代におけるクリエイションの在り方について語り合った。
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パンクの本質は「人とは違うことをやりたいという姿勢」
セッションの冒頭では藤原がスライドを用い、イギリス・ロンドンのパンクムーブメントについて紹介した。「一般的にパンクというと、『セックス・ピストルズ(SEX PISTOLS)』のイメージが強いと思いますが、僕にとってのパンクはその背後にいたマルコム・マクラーレン(Malcolm McLaren)やヴィヴィアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood)で、パンクの本質は人とは違うことをやりたいというアティチュード(姿勢)を持ち、新しい領域へ向かっていくことだと思うんです」と、独自の見解を述べた。

藤原「当時は過激なプリントが施されたパンクのTシャツを着て、母親に嫌がられていました(笑)」
その具体的な例として、「ザ・スペシャルズ (The Specials)」や「エヴリシング・バット・ザ・ガール(Everything But the Girl)」といった、パンクに影響を受けて音楽を始め、既存の概念を破壊して新たなジャンルを創出したバンドを挙げた。「パンクというと、モヒカン頭やトゲトゲの革ジャンを思い浮かべる人が多いかもしれませんが、僕が思うパンクとは、パンクというトンネルを通り抜けた後に、どれだけ考え方を進化させて羽ばたけたかということ。例えば、『コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS)』の川久保玲さんも、パンクというトンネルを通り抜けたんだと思います」と、パンクが音楽に留まらず幅広い分野に対して強い影響を与えたことを語った。

続いて山縣は「パンクからストリートファッションへの歴史」というテーマで、パンクの思想的背景について解説した。パンクの思想的背景を、マルコム・マクラーレンが傾倒したフランスの哲学者 ギー・ドゥボール(Guy Debord)の「状況主義」にあるとし、その「転用(既存の文脈を組み替えて批判的メッセージに変えること)」の思想が、いかにしてパンクのDIY精神へと繋がっていったかを紐解いた。

山縣「パンクファッションを象徴する安全ピンや破れた服も、状況主義に源流があります」
ノーウェアの家賃は約10万円だった
奇しくもパンクが誕生したと言われる1976年に創業したのが、ビームスだ。登壇者たちからコメントを求められた設楽社長は、「ビームスは、今のようなファッションの街ではなかった原宿で、わずか6.5坪の小さな店としてスタートしました。当時メジャーだったブランドの服では満足できていなかった若者たちに、まだ日本で知られていなかった本場アメリカのライフスタイルを紹介しようと始めたんです。ですがその後、ビームスがメジャーになっていくと、ビームスのようなメジャーな服では満足できなかった若者たちに向けて、裏原宿に集まった人たちが新しいファッションを発信し始めたんです」と、藤原が牽引した裏原宿ムーブメントについて言及した。

この日の藤原の足元はフラグメントデザインとドクターマーチンのコラボレーションシューズ
それに対して藤原は「NIGO®君と高橋盾君が『ノーウェア(NOWHERE)』をオープンしたとき、家賃が月10万円くらいだったんですよ。それくらいの金額だったら、若い子でも自分のお店が持てた。バブル崩壊後に地価が下がった隙間に、新しいカルチャーがスポッとハマったんでしょうね」と、なかなか語られないストリートファッションと経済の関係性について考えを述べた。
学校よりも夜の街や大人から教わったことのほうが大きかった
後半は、イベントの主題である「パンクと教育」について語られた。ファッションスクール「ここのがっこう(coconogacco)」を主宰する山縣は、自身が卒業したイギリスの名門セントラル・セント・マーチンズ(Central Saint Martins)のルーツが労働者階級へのアート教育にあり、セックス・ピストルズが1975年に初めてギグを行ったのも同校だったという歴史を紹介した。山縣はインディペンデントな学びの場として「ここのがっこう」を立ち上げたが、そのインスピレーション源としてイラストレーターの長沢節が1954年に創設した「セツ・モードセミナー」があったと明かす。

山縣「僕がセント・マーチンズで教わった先生は元パンクスでした」
「授業は夕方から始まって週3回しかなく、学校と名の付く中で一番楽そうだった」という理由で同セミナーに通っていた藤原は、当時の学びについて「僕にとっては学校の中よりも、原宿や新宿の街に出て、年上の大人たちから教わったことのほうが圧倒的に大きかった。街そのものが学校でした」と振り返る。現在取り組んでいる架空の大学プログラム「フラグメント ユニバーシティ(FRAGMENT UNIVERSITY)」も、自身が当時のストリートで学んだことや、大人から聞いた面白い話を共有したいという思いから始めたと語り、東京藝術大学出身のharu.も、「学校の閉鎖的な空気感が嫌で、授業が終わるとすぐ原宿や渋谷に飛び出していました」と共鳴した。

haru.「現在は包括的性教育のための教材を制作し、中高生向けにワークショップを行っています」
イベントの終盤では、近年進化が著しいAIとクリエイションの関係性について語られた。渡米してアップル(Apple)の新製品発表会を見てきたという藤原は、最新のテクノロジーによって「誰でも数分でプロ並みのクオリティのものができてしまう」現状について、「みんながクリエイティブなもの簡単にを作ることができるようになったら、庭で野菜を育てることのように、手間暇をかけることや、効率化できない生身の身体性にこそ、面白さが見出されていくような気がします」と予測した。
「パンク=不健康」は固定観念に過ぎない
来場者からの質疑応答では、「パンクをはじめとしたカルチャーに携わる人は不健康なイメージがあるが、お酒を飲まない藤原さんはどう折り合いをつけているのですか?」という問いが投げかけられた。藤原は「パンクって退廃的で不健康なイメージを持たれがちですが、お酒もタバコもやらない『ストレート・エッジ』というムーブメントもありました。不健康であることがパンクの条件ではなく、人と同じことをせず、自分の意志で選んだスタイルを貫くことこそがアティチュード。好きなことを長く続けるためにも、健康で元気なほうがいいですしね(笑)」と回答。山縣、haru.も同様に下戸であることを明かし、「自分らしいスタイルでいることこそが一番パンクなのでは」と口を揃えた。
イベントの最後、「あなたにとってパンクとは?」という問いに対し、3人はこう締めくくった。

藤原ヒロシ
パンクというトンネルを通り抜けた後、その先でどれだけ自由に自分の道を選び、進化していけるかという考え方

山縣良和
既存の枠組みに回収されず、オルタナティブを提示し続けること

haru.
世の中の「こうあるべき」という固定観念や当たり前を疑い、問い直しながら、自分自身のスタイルを形にしていくこと
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