上京当時の思い出の場所、文化服装学院12階の学生ホールにて撮影
Image by: FASHIONSNAP
地方出身の著名人たちが、上京当時を振り返る連載企画「あの人の東京1年目」。9人目は、「ルルムウ(rurumu:)」を手掛けるデザイナー 東佳苗。文化服装学院への進学を機に、19歳で単身、福岡から上京した当時を、思い出深い校舎で振り返る。シンガーソングライターを目指した少女時代から、ストリートスナップに魅了され原宿に通い詰めた高校時代を経て、上京後、挫折を繰り返した末にニットと出会うまで。上京して夢を追いかけた若き日の表現者たちは、新しい環境での挫折や苦悩をどの様に乗り越えたのか?夢追い人たちへ贈る、明日へのヒント。
目次
ADVERTISING
シンガーソングライターに憧れた学生時代
学生時代に憧れていたのは、デザイナーではなくシンガーソングライター。自分の内にあるものを形にして、誰かに共感されて、それを生業にすることが夢でした。私にとって、その理想系がシンガーソングライターで、椎名林檎、Chara、安藤裕子、aikoといった歌姫たちに憧れて、中学生の時には詩を書いて、高校生の時にはバンドを組んだりしていたけど、どんなに時間を費やしてピアノやギターに向き合っても、どうしても作曲だけが上手くできなかったんです(笑)。結局、シンガーソングライターになる夢は泣く泣く諦めることにして、次に夢中になったのが、絵を描くことでした。

高校では、美術部に所属。画家を目指していたわけではなかったけど、絵を描くことで自分のセーフティーゾーンを守れるような気がして、とにかく夢中でした。でも、高校卒業のタイミングで友達と作品展を開いた時、ギャラリーの人から「君は、君と同じような心情の人が見たら一瞬で泣くような絵を描いてるかもしれないけど、ノーマルな人にとっては何も感じない」と言われて。辛辣だし衝撃だったけど、すごく腑に落ちたんですよね。それまでの私にとって、絵を描くことは自分との対話でしかなくて「他者が見た時にどう感じるか」を考えて描けていなかったなって。
その言葉を抱えたまま、本屋にこもって画集や写真集を漁っていた時、絵本作家の荒井良二さんの作品に出合いました。幼い子が描いたような素朴な画風なのに、よく見ると深いメッセージが刻まれていて、目にした瞬間、思わずその場で号泣(笑)。負の感情を負のままアウトプットするんじゃなくて、幸せなものとしてパッケージングして届けるやり方があると気づかされたんです。どんなに鋭利で感傷的なテーマを内包していたとしても、「可愛くて綺麗」でコーティングすれば、広く受け手の心に響くかもしれない。辛い時に一緒に堕ちてくれる作品より、高揚感で震えるような作品こそ得難いんじゃないかと。自分もそんな作品を産み出していきたいと覚悟した瞬間だったし、今思えば、それが一つ目の人生の転機でした。今はもう名前も覚えていないあの時のギャラリーの店主が、厳しい本音をぶつけてくれたおかげで、今の方向性に目覚めましたね。
原宿は戦場だった ストリートスナップへの羨望
高校生の時、絵を描くことともう一つ、夢中になったのがファッション雑誌でした。小学生の頃はあゆ(浜崎あゆみ)の影響でギャルに憧れて「ポップティーン(Popteen)」を読んでいたけど、そのあとは「セブンティーン(Seventeen)」、落ち着きたくなって「ノンノ(non-no)」、お姉さん系にシフトしたくなって「ピンキー(PINKY)」や「キャンキャン(CanCam)」に移行して、最後に行き着いたのが、「ジッパー(Zipper)」や「キューティー(CUTiE)」「フルーツ(FRUiTS)」でした。中でも、一番影響を受けたのがフルーツのストリートスナップ。フルーツに登場するスナップはジャンルレスで、個性の振り幅もすごいし、モード系から姫っぽい人、ストリート系までいるじゃないですか。「服って、なんでもありなんだ」と教えてくれました。
高校を卒業してからは、福岡の大村ファッションデザイン専門学校(現・大村美容ファッション専門学校 ※2010年に大村美容専門学校と統合し、改名)に進学しました。ただ、「カルチャーの中心地は東京だ」と思っていたから、青春18きっぷで鈍行を乗り継いだり、夜行バスを使って、暇さえあれば東京や大阪に遊びに行っていました。九州ローカルのカルチャー誌「NO!!」(現在は休刊)のスナップやお部屋紹介のページで取り上げてもらったことはあったので、「東京に行くからにはFRUiTSの表紙に載ってこい」と、行きつけの古着屋の店主にも言われていましたね(笑)。当時の私にとって、原宿はまさに“戦場”。絶対に同じ服は着ていかないと決めて、毎回手作りと好きなブランドをミックスした“戦闘服”を着て上京していました。


上京当時、2010年に撮影されたスナップ。
Image by: FASHIONSNAP
当時はスナップサイトが全盛期。スナップサイトや雑誌のストリートスナップに載ることが私や作品を見つけてもらう手段でした。文化時代の友人に「兎(うさぎ)」と呼ばれていたことから、スナップを掲載してもらうときは「兎@kanae」という名義を使っていました。その頃から「縷縷夢兎(rurumu:)」として服や小物を販売していたので、自分自身も変な名前で記憶と印象に残ることを重要視していましたね。


上京当時のスナップ(2011年撮影)
Image by: FASHIONSNAP

「スナップにも載っているこのうさぎのぬいぐるみは、今でも大切に持っています。名前は小さい方が“シャリ”、大きい方が“親シャリ”です」(東佳苗)
爪痕を残すという意味では、ハンドメイドの名刺を作って、東京のショップやクラブで知り合った人、尊敬し会いたかった人に渡すようにしていました。福岡の専門学校時代、講師の先生から「大物の印象に残りたいんだったら、捨てにくい名刺を作れ」とアドバイスをもらったんです。その先生は自作のキーホルダーを名刺代わりにしていたのを見て、私もあえて捨てにくい名刺にすることでお店に置いてもらおうと考えたんです。10個くらい作って、手元に残ったものは今でも保管しています。

福岡の専門学校時代に作った名刺
その甲斐あってか、原宿のショップ「the Virgin Mary」のオーナーの安理(田村安理)さんが高円寺でやっていたお店「CULT PARTY」では、名刺をきっかけに、私の作った服や小物を委託販売してもらうようになりました。安理さんは、その後もたくさんお世話になった、私の原点のような存在。ずっとブレずにカルチャーを作り続けて、周りから信頼されている姿を間近で見てきました。何を作る/選ぶ/提案する/売るにしても、「この人だから見に行く」とか「この人が選んだものだから」と興味を持ってもらえるような人間としての魅力が何よりも大切だということは、安理さんから学びました。
常にブルーオーシャンを探していた 突破口になったニットとの出会い

文化服装学院の校舎
19歳の春、ようやく文化服装学院に入学。実は、上京を決める前、文化に行くか、アントワープ(アントワープ王立芸術アカデミー)かセントマ(セントラル・セント・マーチンズ)に留学に行くかで迷っていたんです。海外でファッションを学びたい気持ちもあったけど、福岡にいるだけじゃ日本のストリートカルチャーの源流を知ることはできないし、いざ海外で日本のファッションについて聞かれても答えられないと思って。それなら、まずは東京で日本のカルチャーを吸収しよう、と上京を決めたという経緯があります。
入学当初の私はありえないくらい尖っていて、文化は「ハンター×ハンター(HUNTER×HUNTER)」のハンター試験みたいに、全国から奇抜な精鋭たちが集まってくる場所をイメージしていたけど、いざ入学して周りを見渡してみると、意外とみんな普通で拍子抜けでした。「服が好きだからなんとなく」「勉強しなくても入れるから」を理由に来ている子もたくさんいて、肩透かしを食らった、という感覚が一番大きかったです。何様なんだって感じですけど(笑)。私は入学式には自分で作った服を着て、人形を頭に乗せたり抱えたりして挑んだので、明らかに「話しかけちゃいけない人」状態だったとは思うんですけど、「え、なんで私に話しかけてこないの? 私、多分このクラスで一番面白いけど」みたいな恐ろしいマインドでしたね(笑)。

文化服装学院入学式当日の東さん
当時は、どんな職業に就くのか手探りの状態だったので、極力、内申点を良くしたくて。課題は必ず期限内に凝りに凝って提出するし、よく「東さんみたいなポートフォリオを作りなさい」と見本にされたりしていて、入学して数ヶ月は優等生タイプだったと思います。でも、いざ将来について考えたとき、自分はパターンもミシンも苦手なことに気が付いたんです。文化出身で活躍している先輩デザイナーは、パタンナーを経て独立するという流れが一般的だったので、「私にはパタンナーは無理だ」と気づいた瞬間、自分の中で"就職"というルートが完全に閉ざされたんですよね。入学して数ヶ月、夏休みを迎えた頃でした。
ちょうどその頃、もう一つ転機となる出来事がありました。当時は「縷縷夢兎(rurumu:)」として、何店舗かに委託販売していた頃だったんですが、あるショップのオーナーさんに「お客さんから、東さんのブランドと他のブランド、どっちがどっちか分からない。同じブランドじゃないの?と言われた」と言われて、それがすごくショックだったんです。私は“まだこの世にないもの”を生み出そうと作っていたのに、側から見たら“すでにこの世にあるもの”だったんだということを思い知らされて、一旦、縷縷夢兎をストップすることにしました。

東さんが学生時代に主催していた合同展示会「白昼夢」の様子。(2011年9月撮影)
その後、2年次からはニット科に進級。元々、1本1本毛糸を混ぜて色を作っていく作業が、絵の具を混ぜて絵を描くのに近い感覚で好きでした。当時はガーリーかつ私が得意なサブカルチャーの要素を織り交ぜたニットの表現をしているブランドはほぼいなかったので、ニット科の恩師にも「その方向性で頑張りなさい」と背中を押してもらい、ブルーオーシャンを探していた私にとって突破口になったし「ようやく自分らしい表現ができる方向性を見つけた」という感覚でしたね。ニットでいこうと決めてからは、一度ストップしていたブランドをリブランディングして、今の「ルルムウ(rurumu:)」の元となる服作りを始めました。

ニット科の教室があった「H館」跡地(現在は喫煙所)。2017年、老朽化を理由に取り壊された。
校舎の12階から見た“上京”の景色
文化で過ごした学校生活の中でも特に思い出深い場所が、12階の学生ホール。12階は学生たちが集まって課題をやる場所になっていて、みんな遅い時間まで残ってパターン用紙を広げていました。私も当時、2日に1回は学生ホールに来て、終電ギリギリまで課題をやっていました。21時くらいになると一回消灯するんですけど、灯が消えても、携帯の灯りとか自販機の灯りを頼りに地道に続けていたのが懐かしいです(笑)。最後は見回りの警備員さんが来て、「早く出ろ」と怒られて帰る、という流れが日常でした。

12階からの景色は、私にとって「上京」を感じる絶景だったんですよ。映画「ロスト・イン・トランスレーション(Lost in Translation)」の劇中で主人公のシャーロットが「パークハイアット東京」の高層階から見下す景色が、私がイメージしていた“東京の景色”で。文化の12階から一望できる東京は、その景色に似ていたから「今、東京にいるんだな」「来てしまったんだな」と、センチメンタルな気分に浸れる場所でした。この景色見たさに、いつも窓際の席を狙っていたのを覚えています。

文化服装学院の12階、学生ホールから一望できる東京の景色。
“若気の至り”という名の爆発を経て
思い返すと、高校時代から今まで、なぜかわからないけどずっと生き急いでいました。自分がやりたいと思ったことはまずやってみるし、向いていないと感じたら諦めて、次にいく。文化に行くと決めた時も、誰にも言わずに勝手に調べて勝手に受けて、受かったら上京を決めて。常に事後報告だし、有言実行ではなく不言実行をするタイプでした。そっちの方が恥をかかないっていうだけなんですけどね(笑)。学校の先生からは「東さんには何を言っても聞かないから、言ってもしょうがない」と言われてきたし、多分、親も同じように思っていたと思います。
自分の進路で悩むことも、あまりなかった気がします。私の脳は都合の良いようにできているので、自分にとって必要のないことや嫌な気持ちになることがあったとしても、すぐに忘れちゃうんですよ(笑)。それって私にとってはすごく大切な処世術のようなもので、中学生くらいの時からずっとそうでした。その反面、人から言われて「これは忘れない方がいいかも」と思ったことはずっと肝に銘じるようにしています。高校時代に辛辣なマジレスをしてくれたギャラリーの人のように、誰かに言われて自分の中で生きている言葉はたくさんありますね。18歳で親元を離れて、身近に叱咤激励してくれる人がいる環境じゃなかったからこそ、自分に学びを与えてくれる人と意図的に一緒にいるようにしていたのかもしれないです。私はずっと若気の至りという名の爆発ばかりしてきたけど、一応、素直ではあったんですよ(笑)。尖ってはいたけど、正しい指摘をされたら1回受け止めて、自分の中に落とし込んできた実感があります。

だから、上京したてで新しい生活に悩んでいる学生に何か伝えられることがあるとしたら、福岡の専門学校時代、講師の先生に言われたことを思い出します。「今は数十人が同じクラスにいるけど、10年後に一緒にいるのは1人か、多くても2人くらい。だから、馴染めないことがあったとしても何も気にしなくていい。“何者かになりたい”“夢を叶えたい”と思っているなら、周りと同じことをしていても叶えられるわけないし、馴れ合いが一番無駄」という言葉(笑)。冷めているかもしれないけど、当時その言葉を聞いて深く共感したし、スッキリした気持ちになったんです。
私は、昔からずっと「学校はあくまでもランダムにチョイスされた人間を収容する箱」くらいにしか思ってなくて、気が合う人がいたらラッキーくらいの感覚で期待せずに生きてきたので、行きつけの古着屋や好きな音楽のイベントとか、学校外で知り合った趣味の合う子と遊ぶことのほうが多くて。趣味嗜好の範囲が広くないので、話が通じる友達はすごく貴重で、面白くて刺激的な少人数との密度濃い時間が必要なタイプだったんです。友達という形に固執していなかったから、別に「みんなと仲良く」とかは一切してこなかった。けど、それでいいじゃないですか。やりたいことがあって上京しているなら、導きをくれる先輩たちの叱咤激励、そして沢山の挫折と立ち直りを繰り返すことが何より大事。興味の矛先は沢山あって良いし、迷っても良いので、自由な直感を信じて、素直に実直に、色んな扉を叩いて進んでみてほしいです。

◾️あの人の東京1年目
第1話:歌手・タレント 研ナオコと原宿
第2話:お笑い芸人 ランジャタイと大井町(旧NSC)
第3話:アンジュルム 佐々木莉佳子と赤羽橋
第4話:オカルトコレクター 田中俊行と清澄白河
第5話:お笑い芸人 エルフ荒川と神保町
第6話:俳優 佐藤二朗と東京
第7話:俳優 髙石あかりと高井戸
第8話:エバース 佐々木隆史と上石神井
第9話:デザイナー 東佳苗と新宿(文化服装学院)
最終更新日:
ADVERTISING
PAST ARTICLES
【あの人の東京1年目】の過去記事
RANKING TOP 10
アクセスランキング