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地方出身の著名人たちが、上京当時を振り返る連載企画「あの人の東京1年目」。10人目は、数々の名作に出演してきた俳優 光石研さん。16歳で1本の映画に出演したことがきっかけで俳優を志し上京。「30代で壁にぶつかった」と話す彼は、挫折や苦悩をどの様に乗り越え、“名バイプレーヤー”と呼ばれるようになったのか? 夢追い人たちへ贈る、明日へのヒント。
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目次
オーディションの前日に大喧嘩 開けた俳優への道
福岡県で生まれ育ったボクは、本当に「その日暮らし」という表現がピッタリな若者だった。好きなこと、興味があることはたくさんあったが、だからと言ってそれを将来の夢にすることはなく、刹那的に毎日を過ごしていた。

幼少期の光石研
Image by: 鈍牛倶楽部
人生が動いたのは、16歳のとき。友人が『博多っ子純情』という映画のオーディションの話を持ってきた。興味を持ったボクは参加を決意。ところがオーディションの前日、(今となってはもうきっかけは覚えていないが)ある友人に売られた喧嘩を買う形で学校で殴り合いになり、目の上を2〜3針縫うケガをしてしまった! 翌日、絆創膏を貼ってオーディション会場へ。審査員の人たちがケガの理由を聞くので正直に話したら、今度は勝敗を聞かれて、ボクは「大負けしました」と答えた。そしたら大人たちが面白がって喧嘩の再現をしてくれと言うので、全力でやった。これが大受けし、なんと主役に抜擢。そこでの経験がすごく刺激的で、「映画業界で働きたい!」と思った。なんとも不思議な縁だ。本当は俳優ではなく裏方さんがいいかなと考えていたが、入り口が俳優だったのでそのまま俳優を志し、高校卒業と同時に上京した。

原宿に足繁く通った20代
上京して、小田急沿線の千歳船橋に部屋を借りた。駅から歩いて10〜15分ほどの場所。今では信じられないだろうが、1980年代当時は東京・世田谷にも関わらず家の周りに畑がたくさんあった。ボクは福岡県北九州市の黒崎という町の出身だったが、黒崎には畑なんてなかった。しかも千歳船橋駅前の銭湯のトイレは汲み取り式だ。ボクは「東京といってもこんなものか」と拍子抜けし、内心では畑の有無でマウントをとり東京を見下しさえした。新宿に出てど肝を抜かれたのはまた別の話である。
『博多っ子純情』でお世話になったプロデューサーさんに俳優になるために上京したと連絡したら、映画『男はつらいよ』にエキストラとして出演させてもらえることになった。更にその映像を見た業界関係の方からボクの下宿先に連絡が入り、「今後俳優としてやっていくなら所属事務所が必要だ」ということで今の鈍牛倶楽部を紹介してもらえた。今振り返っても、人の縁に助けられっぱなしだ。



光石が通っていた「サンタモニカ」原宿店
今のボクにはあまりイメージがないかもしれないが、上京したてから20代半ばまではアメカジファッションが好きで、原宿に大変お世話になった。当時の原宿は今とは全く様子が違い、服を安く買える古着屋が特にキャットストリート沿いに多く軒を連ねていた。よく渋谷のタワーレコードからキャットストリートを通って原宿までぶらぶら歩いたものだ。中でもよく足を運んでいた古着屋は「デプト(DEPT)」。ハイカラなブランドモノではなく、デイリーに気を遣わず着られる1950〜60年代くらいのアメリカ古着をたくさん置いていた。シャツ1枚あたりの価格帯は2000〜3000円程度で、上京したてで懐が豊かでなかった自分にとっては有り難かった。ちなみに、たまにブランドモノが欲しい時は「サンタモニカ(Santa Monica)」に行った。「ブルックス ブラザーズ(Brooks Brothers)」のアイテムを奮発して7800円で買ったのを覚えている。
キャットストリートにあった「ナイス」というシャレたお店を覚えている人はいるかな。ご夫婦でやっていた雑貨屋さん。古着屋に寄った帰りにそこで気分が上がる雑貨を買って、夜に買った物とコンビニのカップラーメンを肴にレコードを聴く。それが当時のボクのルーティンだった。

近頃はめっきり原宿から足が遠のいていたという光石。最近、東急プラザ原宿「ハラカド」に福岡発の「因幡うどん」がオープンしたと聞きつけて久しぶりに足を運んだ。若い女性が並んでいたので「因幡うどんこんなに人気なんだ、ボクも並ばなきゃ!」と嬉しくなってよく見たら、全く別のアイスクリーム屋の行列だったという。
人間、三十路で壁にぶつかる
29歳の時、妻と結婚し、それを機に横浜の港北ニュータウンに引っ越した。新生活をスタートさせたが、そのタイミングで仕事が激減。スケジュール帳の空白が多くなった。30歳にさしかかって若者の役が難しくなり、かといっておじさんの役もできないといういわゆる“過渡期”だったことに加え「俳優として何かを成し遂げてやろう」「目立ってやろう」といった“欲深さ”みたいなものが自分の中に芽生えてしまっていた。それが演技に反映され、業界人に伝わってしまったのかもしれない。男は(女もそうかもしれないが)三十路の頃に大きな壁にぶつかると聞いたことがあるが、自分にとってはこの時期がまさにそれだった。
一人暮らしの時は正直仕事がなくても生活を切り詰めてどうとでもなったが、妻がいるとそうもいかない。今は知らないが当時の港北ニュータウンは“成功者”然とした人が多く、日中からプラプラしているのが居心地悪かったこともあり、上京後に一度住んでいた下北沢に戻ることにした。


駅前の再開発が進み今では随分雰囲気が変わってしまったが、当時の下北沢は安い居酒屋や街中華、個人商店なんかがひしめいていた。ひと笑いとれるような面白いエピソードはないが、「カプリチョーザ」というイタリアンレストランで皿いっぱいのパスタを友人とシェアしたり、「エクセロ」という居酒屋でおでんを食べたりと、苦しい時期の自分を包み込んでくれるような街だったと記憶している。
自分にとっての転機は下北沢に移り住んだタイミングで、バブル経済が弾けたことだった。不景気で映画業界も潤沢な制作費を用意できなくなり、ギャラが高額だった有名監督に代わって、青山真治さんや岩井俊二さんといった若手監督が台頭した。ボクは彼らと歳が近かったこともあってか、縁あって作品に呼んでもらえて、1つ(の出演)が2つになり、2つが3つになり、といった具合に雪だるま式に仕事が増えていった。
芝居への向き合い方が変わったことも奏功した。先述した通り、スランプに陥った頃のボクは「自分を見てくれ」と前のめりになっていた部分があったが、自己を見つめ直し、「ボクを撮っているんじゃない、作品を撮ってるんだ」と考えを変えた。「自分は作品を良くするための舞台装置に過ぎないんだ」と良い意味で開き直れたことで芝居へのアプローチが変わり、これが今の「名バイプレイヤー」といった嬉しい評価に繋がったような気がする。

人生には必ず終わりがある、だからこそ
10代で上京して気付けば40年以上。振り返ると、この飽き性なボクがよくこんなにも長い間一つの仕事を続けてこられたなと思う。作品が違えば監督も脚本もスタッフも共演者も違い、現場入りのたびに新鮮な気持ちになれる俳優という仕事は、自分にとって天職なのかもしれない。ボクは幸せ者だ。ただ、ここで重要なのは、天職というのは基本的に受け身の姿勢で天から降ってくるものではないということ。僭越ながら人生の岐路に立って悩んでいる人にアドバイスさせてもらうとしたら、好きなことは全力でやれ! それが1つでなく2つ3つあったとしたら、夢中になって全部やりなさい。もちろんそれで食べていけるようになるのが一番だけど、そうならなかったとしても意味はある。
少し前に観た何かのテレビ番組で、新橋の駅前にギターを置いて道行く人に弾いてもらうという企画があり、酔っ払ったサラリーマン風のオヤジが現れた。服はヨレヨレで、言っちゃあ悪いが“ダッサダサ”な風貌だ。そんなオヤジがギターを手に取り演奏したらめちゃめちゃに上手くて、気付いたらボクは涙を流してた。その人がこれまでの半生ギターにどれだけ一生懸命打ち込んできたのかが伝わってきたから。きっとオヤジは音楽の道には進まなかったんだろうけど、好きなことのために努力した時間は間違いなく彼自身を大きくしたはず。
ボクも俳優になるまではフラフラと寄り道を繰り返してきたけど、時間を忘れて周囲が真っ暗になるまで虫を見ていたあの夜も、今の自分を形作る一要素だ。人生には必ず終わりがある。だからこそ、毎日を大切に、悔いのないように。ボクもまだまだ60歳を超えたばかり。やりたいことには全部チャレンジしていこう。

styling: Satsuki Shimoyama, hair & makeup: Chiho Oshima | photography: Hikaru Nagumo(FASHIONSNAP)
衣装クレジット
スーツ、ネクタイ:Artigiano-Tokyo
シューズ:Paraboot
その他:スタイリスト私物
最終更新日:
■でっちあげ ~殺人教師と呼ばれた男
公開日:2025年6月27日(金)
監督:三池崇史
脚本:森ハヤシ
原作:でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相
出演:綾野剛、柴咲コウ、亀梨和也、大倉孝二、小澤征悦、髙嶋政宏、迫田孝也、木村文乃、光石研、北村一輝、小林薫
配給:東映
公式サイト/公式X/公式インスタグラム
<あらすじ>
2003年 小学校教諭・薮下誠一(綾野剛)は、保護者・氷室律子(柴咲コウ)に児童・氷室拓翔への体罰で告発された。体罰とはものの言いようで、その内容は聞くに耐えない虐めだった。これを嗅ぎつけた週刊春報の記者・鳴海三千彦(亀梨和也)が"実名報道"に踏み切る。過激な言葉で飾られた記事は、瞬く間に世の中を震撼させ、薮下はマスコミの標的となった。誹謗中傷、裏切り、停職、壊れていく日常。次から次へと底なしの絶望が薮下をすり潰していく。一方、律子を擁護する声は多く、"550人もの大弁護団"が結成され、前代未聞の民事訴訟へと発展。誰もが律子側の勝利を切望し、確信していたのだが、法廷で薮下の口から語られたのは「すべて事実無根の"でっちあげ"」だという完全否認だった。これは真実に基づく、真実を疑う物語。
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