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【あの人の東京1年目】デザイナー コシノヒロコと西新宿

Image by: FASHIONSNAP

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 第一線で活躍する著名人たちが、自身のキャリアに影響を与えた“東京”の街について語る連載企画「あの人の東京1年目」。11人目は、日本ファッション界のレジェンドであり、90歳を目前にしてもなお現役で走り続けるデザイナーのコシノヒロコさん。洋裁店の実家に育ちながら「洋服作りは大嫌い」で画家を夢見た少女は、雑誌で見た「スタイル画」との出会いをきっかけに、19歳で単身大阪から上京し文化服装学院に入学。強力なライバルである妹・コシノジュンコさんや後の大物デザイナーとなる仲間たちと切磋琢磨し遊び歩いた学生時代を経て、戦後の日本のファッション史を自らの手で切り拓いてきた彼女は、新しい環境での苦悩や葛藤をどのように乗り越え、夢を現実のものとしてきたのか?夢追い人たちへ贈る、明日へのヒント。

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「洋服作りが嫌い」な少女をデザイナーへと導いた、スタイル画との出会い

 元々、私は絵描きになりたかったの。実家が洋裁店で、若い人たちが寝ても覚めても夜遅くまで、ただひたすら人様のものを縫っている。自分の楽しみのためにやってるわけでもないし、そういう毎日を見てると「洋服作りってすっごく嫌だな」と思って、母(小篠綾子)の跡を継ぎたくなかったんです。それで芸大を受験するために一生懸命頑張っていたのに、突然母に反対されてダメになってしまって。

 どうしようと思っていたときに出会ったのが、当時「ひまわり」や「ソレイユ」という少女向け雑誌に載っていた中原淳一先生の「スタイル画」でした。それを見て「これだったら絵を描くことがファッションの世界で生かされるんじゃないか」と思ったんです。「スタイル画を勉強するために東京に出たい」と母に伝えたところ、「そっちの方に行ってくれるんだったらどうぞどうぞ」と二つ返事でした。

 それで初めて東京に出ていったわけです。普通なら、10代後半の子どもが上京するとなったら親は一緒についてくるものだけど、うちの母はポンと3000円を手渡して、「このお金で自分で東京に行きなさい。母ちゃんの弟子のよし子さんが、結婚して東京の下井草というところにいるから、その子を頼って行きなさい」と。

 当時はまだ新幹線も特急もない、蒸気機関車の時代だったから、各駅停車で13時間くらいかけて大阪から東京まで行って。住所が書かれた紙だけを頼りに、交番や駅前のたばこ屋さんに場所を尋ねながら、よし子さんの家を探して歩きました。最後は日が暮れて真っ暗になってしまったから、マッチを買ってその火で一軒一軒表札を照らして彷徨いながら、やっと見つけた。よし子さんも、私が突然一人で訪ねていったからびっくりしていましたね(笑)。

入学後半年で吐血し休学、病気が開いた飛躍の道

 最初はドレスメーカー女学院に入るつもりだったのですが、文化服装学院(以下、文化)の鉄筋コンクリートの円形校舎を見て「うわ、かっこいい。ここに決めた」と。翌年からは男女共学になるというのも面白そうだったので、その日に願書を納めて無事に入学しました。親も入学式には流石についてきてくれましたね(笑)。

現在の文化服装学院の校舎外観

現在の文化服装学院の校舎。コシノさんが惹きつけられた円形校舎は1998年に解体され、建て替えられた。

 最初の6ヶ月は、下井草のよし子さんの隣の家に下宿したものの、そこのお母さんがものすごくきっちりした人で。帰宅が1時間遅れただけで怒られるし、夜遅くまで宿題をしていても「早く寝なさい」と言われるほど、束縛がきつかった。大阪にいるときはほったらかしで、3日間くらい家を空けていても平気な生活をしていたから、私にとってはがんじがらめで地獄みたいな日々でした。

 結局、初めての夏休みにストレスで吐血して、胃潰瘍になってしまって。半年くらい学校を休学しなきゃいけなくなったんです。でも、私は縫うのが大っ嫌いだったから、休学の間は当時師事していたスタイル画の原雅夫先生のもとで、朝から晩まで1日平均30枚、寝ても覚めても筆で絵を描いていました。そうしているうちに筆の使い方がどんどん上手くなって、自分の得意技が完全に身についた。原先生も私をすごく認めてくれて、学生ながら洋裁の先生方向けの特別講習のアシスタントとして絵を教えたり、「装苑」の洋服の裁断方法が載っているページの横に絵型を描く仕事をもらったりもして。だから、私は病気したおかげでものすごく得したんですね。

 ただ、上京して最初の半年はすごく寂しくて、学校でも縫うことばっかりでおもしろくないから、「新宿末廣亭」という寄席に3日に1回ぐらい落語を聞きに行っていました。笑いを求めないとやってられないくらい、毎日苦しかったんです。でも、そうすると下宿のおばさんに怒られるから余計に反抗して、帰りたくなくて遊んでいましたね。

新宿末廣亭の外観

1946年に開業した新宿末廣亭は、東京都内に残る唯一の木造建築かつ桟敷席がある日本最古の寄席として、現在も当時の姿のまま営業を続けている。

 休学してからは、学校に歩いて行ける距離だった新宿の「十二社(じゅうにそう)」に住んでいました。熊野神社の近くに十二社郵便局があったんですが、その2階の学生に貸す部屋の1室を、文化の友達の鈴木尚子(たかこ)さんと二人で借りて。部屋は狭かったけれど、家賃は1ヶ月7000円。母が送ってくる2万5000円の仕送りから家賃を払ったら食べていけないくらいだったけど、不思議とちゃんとやっていけてましたね。近くにいた面倒見のいいおばさんが、よくごはんを食べさせてくれたりして。

現在の十二社通り

「十二社」は現在の西新宿にあった旧地名で、昭和40年代の住居表示に伴い消滅。現在も「十二社通り」として名前が残っている。当時一緒に住んでいた鈴木さんとは、現在も親しい付き合いがあるという。

飛び級で学んだ立体裁断、ジュンコや賢三と切磋琢磨し遊び歩いた日々

 「縫う」ことは服作りの基本なんですけれども、私は自分で縫うのがものすごく嫌いで。当時は、まず普通裁断科と高等裁断科でそれぞれ半年ずつ学んだ後に、さらに試験を受けなければデザイン科には進めませんでした。でも、私は復学したときに「絵を描くことができればデザインすることはできる」「ヒロコさんは原先生のアシスタントをしているくらいだから、高等裁断科はもう出なくていい」という学校側の判断で、デザイン科に飛び級で入れちゃったんです。

 ちょうどそのとき、小池千枝先生がパリでイヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)と机を並べて立体裁断を学び、初めて日本に持ち込んだタイミングでした。だから私は、立体裁断を日本で学んだ第一期生なんですよ。製図を引くんじゃなくて、手で布を立体的にデザインしたり裁断したりするのがとてもおもしろくて。それで、私は元々絵が描けたうえに、最短距離で最先端の技術も身につけたので、従来の考え方とは違う洋服をどんどん表現できるようになったわけです。

 2年生になると、妹の順子(コシノジュンコ)たちが入学してきた。当時私は、学校の文化祭でモデルをやったり、ファッションショーの解説をしたりと大活躍だったので、下級生はみんな憧れちゃうわけです。だから、順子も(高田)賢三さん、金子(功)さん、松田(光弘)さんの3人組を含めた何人かと一緒に、暇さえあれば私の教室を覗きに来てましたね。

文化服装学院でモデルを務めるコシノヒロコさん

文化服装学院時代のコシノさん

Image by: コシノヒロコ

 順子は、元々「私も文化に入るんだ!」と言って私のあとを追いかけてきて、部屋に入り込んで一緒に寝泊まりするようになったんです。それで、当時創設されたばかりの「装苑賞」に私が応募するときのアシスタントとして、雑務を彼女にやらせてました。すると、私が100枚くらい絵を描いて出すのを隣で見ているうちに、どういうものが賞を取りやすいのかを、彼女なりに掴んだみたいで。結局、私は次点の2位しか取れなかったけど、順子は私が卒業した後に出して、すぐに装苑賞を取ったんです。そのときの威張りようったら凄かったんだから(笑)。

 在学中は、私が十二社にいたからしょっちゅう順子や賢三さんたちとみんなで遊びに行って、新宿の西口でごはんを食べて、それから歩いて帰る。夜遅くまで、若者たちが遊びくたびれ飲みくたびれながらぞろぞろと歩いてたから、青梅街道で警察に補導されそうになったこともありました(笑)。当時はロシア民謡が流行っていて、新宿の“歌声喫茶”に行ってみんなで歌ったり、ジャズも流行っていたから「汀(なぎさ)」とか「キーヨ」というジャズ喫茶に行ってジャズを聴いたりして。毎晩毎晩、本当によく遊んでましたね。

文化服装学院時代のコシノヒロコさん

文化服装学院時代のコシノさん

Image by: コシノヒロコ

デザイナーや文化人のたまり場に 姉妹で初出店した銀座・小松ストアー

 卒業後は一度大阪に帰って、実家の跡継ぎとして母の横で仕事をやることになったんですけれど、もうそれが嫌で。でも帰った途端に、順子が銀座の小松ストアー(現・ギンザコマツ)で「ヤング・レディ・コーナー」を作るということで、「一人では自信がないからお姉ちゃん一緒にやろうよ」と相談に来た。私もまた東京に出ていくチャンスができて嬉しかったから、「じゃあ行く行く」と。

 実は、私はもうそのとき結婚していて子どももいたんです。夫の実家が下北沢にあったから、義母がその家の庭を潰してアトリエを作ってくれて、そこで順子と製作するようになりました。

「ユニクロ銀座店」の外観

小松ストアーは、現在「ギンザコマツ」に。東館には「ユニクロ銀座店」、西館には「ドーバー ストリート マーケット ギンザ」が入っている。

東館と西館を繋ぐ連絡通路

東館と西館を繋ぐ連絡通路

 小松ストアーではいつも2人でちょこんとデスクに座って、オーダーに来た人にデザインを描いたり、仮縫い室で仮縫いしたりしていました。だけど、すごくオープンな場所だったから、そこに友達がいっぱい集まってくるんですよね。賢三さんも松田さんも金子さんも来るし、三宅一生さんや山本寛斎さんも来て、一つのたまり場みたいになっちゃったの。画家の金子國義さんや、人形作家の四谷シモンさん、詩人の高橋睦郎さんといった当時活躍していた同世代の方々ともお友達になりましたし。そうすると、小松ストアーの部長としてはおもしろくないわけですよね。若い子がいつも集まってわいわいやっていて、「一体いつ商売やってんだ。商売の邪魔になる」と。

 でも、当時来ていた人たちは、今考えるとみんな将来すごい人たちになってるわけですよ。そういう人たちが集まって情報交換しながら、小さいパーティーを家でやったり、面白いものを見つけてはみんなで見に行って、その後ごはんを食べに行ったり踊りに行ったりして。今はどうだかわからないけど、そのころのデザイナー同士はみんなすごく仲が良かったから、いつも一緒に遊んでました。だから、学生時代からの延長で社会に出ていった感じだったんですよね。

オフィスの自室に座るコシノヒロコさん

 当時は順子と競い合うようにして、立体裁断で非常に斬新な、自分らしいデザインの服をお互いにどんどん作っていきました。だから、それぞれの絶対的なファンになってくれるお客さまたちも増えていって、結構評判は良かったんです。私たちの作品を店の壁にディスプレイしていると、普通の女の子たちがそれを真似して作って、それが「みゆき族」が生まれるきっかけにもなりました。

 でも、立体裁断をやっているときに、勢い余ってハサミでお客さまのブラジャーの紐を着るわ、肩の肉をちょこっと切るわ、まあいろいろと酷いこともやっちゃったんです。デザインはおもしろいけど縫製は未熟だったしね。結局小松ストアーでは3年間やったけれど、最後はクビになってしまいました(笑)。

 あの3年間は、順子というライバルの横で、それぞれのお客さまに合わせて自分のテイストを徹底的にデザイン化して、オリジナリティを追求していくトレーニングができた。そういう意味で非常に勉強になりましたし、その経験のおかげで自分のデザインの個性を確立できたと思っています。

コシノさん(1960年代後半、心斎橋の店舗にて)

Image by: コシノヒロコ

 それで、「じゃあそれぞれ自分たちのお店を持とう」ということになり、私は大阪に戻って心斎橋筋に、順子は青山のあたりにお店を構えて、二人とも独立しました。

 大阪のお店には、伊丹十三さんがしょっちゅう遊びに来ていたんですが、すごく印象に残っていることがあります。あるとき私が「東京ではマスコミに注目されやすくて、順子は東京で有名になっていってるのに、私は大阪でこんなに真面目にやっていても埒が明かない、やっぱり東京に行ったほうがいいのかな」と相談したら、「自分のスタイルを完全に確立して、侵されない個性を持ってから行かないと危ないよ。東京では、メディアが寄ってきてやりたいことができなくなるから、今のうちにきっちり肥やしを付けておいたほうがいいよ」と言ってくれたんです。

 実際に、私が大阪にいたからこそできたことが山ほどあった。確かにマスコミの力は東京の方が強いんだけど、当時は輸入生地のメーカーや商社の本社は全部大阪にあったんですよ。1ドル360円の時代に、生地代だけで10万円くらいするような海外の素晴らしいテキスタイルを、大阪にいるほうがいい条件で手に入れることができました。

1960年代後半、心斎橋の店舗で撮影した写真。3人の人物が写っており、左が入江末男さん、中央がコシノさん。

1960年代後半、心斎橋の店舗にて。中央がコシノさん、左は当時コシノさんのアトリエスタッフとして働いていたファッションデザイナーの入江末男さん。

Image by: コシノヒロコ

日本人初、ローマ・オートクチュール進出で掴んだ大成功

 日本人としてはじめてローマでオートクチュールコレクションを発表するという大きなチャンスを掴めたのも、大阪で仕事をしていたから。当時、大阪では伊藤忠商事が輸入生地の流通をすべて手掛けていて、その下にコロネット商会やサン・フレールといった生地屋さんがありました。

 コロネット商会の桃田有造社長が、イタリアのファッション界で多大な影響力を持つジュゼッペ・デッラ・スキアーヴァ(Giuseppe Della Schiava)さんと非常に親しかった。彼は「ハーパース・バザー(Harper’s BAZAAR)」や「コスモポリタン(COSMOPOLITAN)」を手掛け、今のミラノファッションの礎を築いたような人物です。その彼が若手のクリエイターを発掘する事業をやっていて、桃田社長から紹介を受けて、私に白羽の矢が立った。それで「費用はすべて僕が持つから、ローマでオートクチュールのコレクションをやりなさい」と言ってくれたんです。

 1978年にローマのグランドホテルでやったショーは、大成功でした。着物的発想で作った洋服で、縫うところが少なく、着付けによって洋服のようなシルエットを出していくようなものだったんですが、それが海外の人にはすごく面白くて斬新だったんですよ。世界中のメディアやバイヤーの方たちから高い評価を受けて、ハーパーズ バザーで30ページの特集が組まれたりもしました。

1978年のローマでのオートクチュールショーの様子

1978年のローマでのオートクチュールショーの様子

Image by: コシノヒロコ

 後日、ロサンゼルスの有名セレクトショップのバイヤーがその服を全部買ってくれたのですが、1着10万円で卸したものが、現地では300万円ぐらいで売られていた。洋服に対する価値観が、日本とは全然違ったんです。同じコレクションを日本で披露したときは、「こんなのどうやって着るの?」といった反応が大半で、その良さをほとんどわかってもらえませんでした。それだけ、当時の日本はまだまだ遅れていたんですよね。でもその後も、私は日本人の生活の中にある日本の美意識をどのように現代の洋服に還元していくか、ということをずっと考えながら、表現し続けてきました。

 その後、時代はオートクチュールからプレタポルテへと移り変わりました。そんな折、仕事で訪れたアフガニスタンで、ジプシーの女の子たちが、移動生活の中でも自分らしくお洒落を楽しむ姿に衝撃を受けたんです。彼女たちが身に付けているものはそれ自体が財産で、カラフルで美しい布をパッチワークしたものでしたが、それがたまらなく可愛かった。

 それを見て、「私には“大量生産”は向かない。やっぱりオートクチュールで、その人にしかできないような仕事に徹するべきだ」と思ったんです。でも世の中は完全にプレタポルテの時代。それなら大量生産をやるにしても、「クチュールの思想を元にした、質の高いプレタをやろう」という考えにたどり着きました。

ショートカットで白いチュニックを着た姿のコシノヒロコさん

コシノさん(1978年、ローマでのオートクチュールショーフィナーレにて)

Image by: コシノヒロコ

”日本のファッションの歴史”を経験してきたからこそ、次世代に伝えたいこと

 来年90歳になりますが、私がまだ現役で頑張っていられるのは、若いときに「失敗するんじゃないか」「これは危険かもしれないからやめておこう」といったことを考えないで、まず行動に移すのが私のやり方だったことが大きいと思います。確かに今考えると危ないこともあったし失敗もあるけど、ずっと積極的に実行することを続けてきたし、幸いにも、それを世の中が受け入れてくれる時代を生きてくることができた。それ以前は、若い人で本当にお洒落できるのはお金持ちのお嬢さんくらいだったので、普通の人はファッションにあまり興味がなかったし、「デザイナー」という職業にも理解がなかったから。

 だからこそ、私が今までやってきたことは、ある意味“日本のファッションの歴史”みたいな、すごく貴重な経験なんですよね。歴代の作った服を追っていくと、その時代ごとのデザイン思想や背景、素材の豊かさや技術の進化、海外への進出と交流の歴史などが見えてくる。今のファストファッションとは違う、本当に手が込んでいて愛のこもった、着る人の個性を活かせるような服を作り続けてきたからこそ、この知見を次世代に繋いでいくのが自分のミッションだと感じています。そしてそれには、これからの人たちがどう進んでいくべきかについて、何かしらの示唆を与えるだけの力があると思うの。

 今年5月に東京都現代美術館で展覧会を開催するのも、これからの日本文化を支えていく若い人たちにとってプラスになればという「義務感」からなんです。私のことや私の服を知らない人たちがどんなふうに見てくれるのか、今からとても楽しみですね。

 これから上京して夢を叶えようとしている人にアドバイスするとしたら、まずはどんな些細なことでもやってみないとわからないから、失敗を恐れて消極的になってはいけないということ。そして、自分が情熱を注げることに関してはいつも前向きに、命懸けで立ち向かっていくというくらいの心構えでやれると、素晴らしい人生が開けてくるんじゃないかと思います。

ブランドのロゴの前に立つコシノヒロコさん

photography: Sumire Ozawa

最終更新日:

FASHIONSNAP 編集記者

佐々木エリカ

Erika Sasaki

埼玉県出身。早稲田大学国際教養学部卒業後、国内大手アパレルメーカー、ケリング傘下ブランドのMDなどを経験した後、2023年にレコオーランドに入社。現在はウィメンズファッションをメインに担当。ファッションやカルチャーへの熱量と同様にジェンダーや社会問題にまつわるトピックにも関心があるため、その接点を見出し、思考や議論のきっかけとなるような発信をしていけたらと願っている。

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