
Image by: FASHIONSNAP

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「ゆるふわ大明神」の異名を持ち、長年京都を拠点に大学でファッション論を教える傍ら批評家・キュレーターとしても活動してきた京都精華大学デザイン学部教授の蘆田裕史氏が、「ファッション」や「ファッション論」について身近なものごとから考えるコラム連載。ポケモンカードブームから服と「消費」について紐解いた前回に続く第11回は、“おじさん短パン論争”から考えるルッキズムの話。
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目次
猛暑の夏、おじさんが短パンをはくことは是か非か?
残暑厳しき折、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
僕が住んでいる京都はよく暑いと言われます。が、これを読んでいる人⎯⎯人口比率的におそらく東京の人が多いでしょう⎯⎯には「日本の夏はどこも暑いでしょ?」と思われるに違いありません。僕も20代まではそう思っていました。けれども、ときどき泊まりで東京に行くようになって気がついたのですが、東京は夜涼しくなるんですよね。夏は昼も夜も暑いと思っていた僕にとって、その事実は結構衝撃でした。「京都は盆地だから暑い」というのは、「京都は日が暮れても気温が下がりにくく、暑さが続きやすい」ということなのでしょう。
さて、そんな暑い土地に住んでいる47歳の僕は、当然のように夏は短パン(ハーフパンツ)をはきます。だって暑いんですもの。けれども、少し前にこんなニュースを目にしました。「おじさんが短パンをはくのはやめてほしい」という、SNS上で議論になった話題に端を発するものです。おそらく読者のみなさんも同種の議論をどこかで見たことがあるのではないでしょうか。
なぜいま「おじさんの短パン」が問題になっているのでしょうか。ざっと背景を整理すると、気候変動や温暖化などにより夏の暑さがますます耐えがたいものになっていること*¹、そして政府や行政による「クールビズ」の推進があるでしょう。およそ20年前から環境省がクールビズという言葉を用いて軽装化を推し進めていますが(そのさらに10年ほど前には当時の首相の羽田孜氏が半袖ジャケットを提案したりもしていました)、今年、とうとう東京都庁では短パンをはいての勤務さえ認められるようになりました。ノーネクタイやスーツ+スニーカーなど、ビジネスウェアはカジュアル化の一途をたどっているため、こうした動きは必然とも言えるでしょう。短パン勤務の解禁は自然な流れとみることもできますが、慣習が変わるときにはつねに反対意見が出るのも世の常です。現代ではSNSにより個人が気軽に意見を言うことができるようになったため、何気なくつぶやいた一言がバズってしまうことも珍しくありません。
*¹ 『気象庁』のウェブサイトには「東京都の気候変化」のデータを示したページがあるのですが、それによると東京の年間平均気温は右肩上がりのようです。

否定派の意見としては、男性のすね毛を否応なく見せられてしまうことへの不快感があるようです。一方で、そもそも行政が理由もなく短パンを認めるわけはないでしょう。環境にできるだけ負荷をかけないためにエアコンの温度設定を高めにするのであれば、男女問わず軽装化は必然の流れとも言えます。また法的にも、男性だけ短パンを認めないというのは「労働者に対する性別を理由とした差別」につながる可能性もあるようです*²。
*² 「クールビズで“短パン解禁”、すね毛が『きもい』 『不快』との声もあるが… 就業規則で『男性のみNG』にすることは可能?」『弁護士JPニュース』
おじさんが短パンをはくことは是か非か。僕自身「おじさん」なので、ポジショントーク(自らの立場に有利な方向へ意見や情報を発信すること)になってしまいかねないのが少し気になりますが、これに対する答えは決まっています。「短パンをはこうが、長ズボンをはこうが、どちらも個人の自由だ」というものです。とはいえ、昨年「おじさんパーカ論争」が起こったことを考えると、どうやらこの手の話は繰り返し起こるようです。そこで、もう少しこの問題についてきちんと考えてみることにします。
「おじさん短パン論争」の根底にあるもの
少し話を広げるならば、この問題はルッキズムとも関わるものです。ルッキズムという言葉は最近よく耳にしますが、「-ism」という言葉はちょっと意味がつかみにくいですよね。「モダニズム」や「フェミニズム」はネガティブなニュアンスを含みませんが、「レイシズム」や「セクシズム」は人種差別(主義)や性差別(主義)という意味になります。ルッキズムも後者の部類で、外見差別(主義)というような意味です。
ルッキズムに関する議論で、しばしば「人を外見でジャッジするのはよくない」というような言い方がされますが、この表現はなかなかトリッキーです。その理由は、「外見」という言葉が何を指しているのか不明瞭だからです。外見という言葉が指すものに何がありうるのかを考えてみると、たとえば肌の色もそうですし、服装もそうです。あるいは、笑顔や不機嫌そうな顔(最近はフキハラという言葉もありますよね)も外見に含まれるでしょう。
正直なところ、「外見」の定義については僕も目下考え中で、いまだ十分に整理できていません。ただ、整理する必要性だけは強く感じています。以前も「ファッション」の定義を整理しないといけないという話をしましたが、これは「外見」についてもまったく同様です。実際、最近のルッキズムの議論では、「選択できない外見」には言及してはならず、「選択できる外見」には言及してもよいという主張も見られます。したがって、まずは「外見」という言葉について考えなければなりません。
「外見」を構成する3つのレイヤー:身体、服装、振る舞い
さて、「外見」という言葉が何を指しているのか考えてみると、少なくとも3つのレイヤーがあるように思われます。それは「身体」「服装」「振る舞い」です。
一つ目の「身体」は、身長や肌の色、あるいは体型などが含まれるでしょう。身体は、その大部分が私たちにとってどうにもならないものです。僕の身長はおよそ176cmなのですが、これを高くしたり低くしたりすることはできませんし、自分の顔を気に入っていなかったとしても、簡単にそれを変えることはできません(美容整形という手段もあるにはありますが、ひとまずそれはおいておきます)。先程述べたとおり、最近は「人種」や「国籍」といった、その人が変えたくても変えることのできない属性と同様、身体についても言及することはよくないという価値観が浸透してきているように思われます。
しかしながら、外見は身体とイコールではありません。外見が「外からの見た目」を意味するのであれば、ファッション、もっと言えば「服装」もそこに含まれます。実際、私たちが街中で人を見るときには、身体と同じくらい「服装」からさまざまな印象を受け取っています。パンクファッションに身を包んだ人を見たら、「あの人はパンクロックが好きなんだな」と思ったりもするでしょう。これが「外見」の二つ目の意味です。
三つ目は「振る舞い」と言えそうですが、それを構成する要素のなかでもっともわかりやすいのは先にも挙げた「表情」でしょう。「身体」と「服装」はルッキズムの議論でよく言及されるのですが、表情については看過されているように思います。そして、ルッキズムの議論をする上ではこれがきわめて重要になってくるのですが、今回はそこまで踏み込めませんのでひとまず置いておきます。
服装は選べるから口出ししても良い?
さて、「身体」と「服装」を分ける意味があるのは、両者が選択可能なものか選択不可能なものか、という違いがあるからだとまずは考えられます。先にも述べたとおり、ルッキズムの議論では、「選択できる外見」と「選択できない外見」を分けることが重要だとされるからです。けれども、この「選択(不)可能性」という違いで両者を分けて議論するのはちょっと違うのではないかと思うのです。
僕は、こうした議論を整理するためには、「社会的身体」という概念が必要だと思っています。私たちが身体について話をするとき、そこで名指されているのは生物学的身体の場合がほとんどです。生物学的身体は脱衣の状態がデフォルトであるため、そこでファッションの問題は入ってきません。けれども、第6回で指摘したとおり、身体は「生物学的身体」と「社会的身体」の二通りに分けられると僕は考えています(そうでなければ、たとえば「人前で裸になることがなぜいけないのか」という問いについて答えることもできません)。社会的身体は着衣の状態がデフォルトなので、そこでは身体とファッション(衣服/服装)の二つの要素が入ってきます。
これまでに何度も述べたとおり、ファッションはアイデンティティと密接に関わるものです。私たちは着るものを通して自らのアイデンティティを表し(あるいは隠し)ます。アイデンティティを託したものについて、他人からどうこう言われる筋合いはないでしょう。私たちが自らが信仰する宗教について、他人からとやかく言われる筋合いがないのと同様に。もちろん、私たちはいつ何時でも好きな服装に身を包むことができる訳ではありません。仕事の場では暗黙の了解でスーツを着なければならないという人もいるでしょうし、葬儀の場でアロハシャツを着ることは避ける方が望ましいでしょう。ファッションは個人と社会のあいだのインターフェースであり、両者のあいだでせめぎあいが生じるものです。あるいはまた、個人の経済状況などによっても選択の余地はさらに狭まります。その意味では、そもそもファッションも完全に選択可能なものというわけではありません。
「(生物学的)身体は選択不可能であるがゆえに(たとえ褒めているつもりであっても)言及してはならないが、ファッションは選択可能なものであるがゆえに言及してよい」という考え方は、ファッションを軽んじている態度にほかなりません。これが反転されたものの例として、いわゆるブラック校則と呼ばれるものがあります。「下着の色は白でなければならない」「髪の毛は地毛であっても茶色は認めない」など、中学校や高校でファッションに関わる理不尽な校則があるという話をみなさんもしばしば耳にするでしょう。この種の校則を定めている学校であっても、おそらく身体に介入するような校則はないはずです。こうしたブラック校則の根底にあるのは、「ファッションは身体と異なり軽いものだから口出ししても構わない」という価値観です。
身体とファッションを選択(不)可能性によって分けることの弊害がここにあります。「身体とファッションはどちらも社会的身体を構成する不可欠な要素であり、どちらも同じように扱わなければならない」と考えなければ、こうしたブラック校則をなくすこともできないでしょう。
他人の服装に口出しする前に必要なこと
このように考えるならば、身体についてもファッションについても、原則的に他人が不用意に言及するのは避けた方が望ましいという結論になります。けれども、そんな社会は息苦しい、「友達の服装がいつもより可愛かったら褒めて一緒にはしゃぎたいよ!」という人もいるはずです。僕もその考えには同意です。これはダブルスタンダードでもなんでもなく(僕はダブルスタンダードが悪いと思っていないのですが)、そこにあるのは別の論理です。すなわち、合意の形成が得られている(とみなせる)かどうか、です。
たとえば、あなたと友人のあいだで、「服装について触れてもよい」という合意が得られているのであれば、朝に会社や学校で会ったとき、開口一番で友人の服装を褒めてもまったく問題ないでしょう。逆に、その合意の形成が得られていないのであれば、どんなに「今日のあの人の服可愛いな」と思っても、不用意に触れることはしない方が賢明でしょう。
けれども、服装について言及してもよいかどうかの合意を取りつけるようなことは、私たちはふだんしません(僕もしません)。その場合、一切触れてはならないかというと、そういうわけでもないはずです。合意というのは契約書のようなものではなく、日常的なコミュニケーションの積み重ねのなかで、なんとなく形成されるものでもあります。それゆえ、自分と相手のあいだで齟齬が生じていることもあるはずです。合意が形成されていると思い込んで、相手の服装を褒めたら嫌そうな顔をされることもあるかもしれません。その場合は、自分の思い込みに修正をかける必要があるでしょう。場合によっては、(少しばかり)傷つけたり傷つけられたりしながら、合意を形成したり、合意の形成を諦めたりすることもあるでしょう。他者とコミュニケーションを取るという行為は、ひいては社会のなかで生きるというのはそういうものだと僕は思います(もちろん、決定的にとりかえしのつかないような傷つけ方は避けなければなりませんが)。
結論としては、冒頭に述べたとおり「中年男性が短パンをはこうがパーカを着ようが、中年女性がバンドTシャツを着ようがロマンティックな格好をしてようが、本人の好きなようにしたらいいじゃん」というあまりに単純なものです。他人の(生物学的)身体に口出しすべきではないという価値観と同じくらい、他人のファッションに口出しすべきではないという価値観が根づいたらいいのにな、と心から願っています。
★今回のテーマをもっとよく知るための推薦図書
・佐藤岳詩『心とからだの倫理学』筑摩書房、2021年
今回のコラムでは取り上げられませんでしたが、ルッキズムの問題を考える上で避けては通れないテーマに「美容整形」があります。本書の一部は、美容整形は肯定できるのか否かについて、賛成派・反対派双方の主張を取り上げながら考えるものになっており、中立的な立場から考えることが可能です。それ以外にもドーピングやスマートドラッグなど、一般には否定的に捉えられがちなものについても正面から議論をしており、身体をめぐる倫理的問題について関心のある方はぜひ。
・伊藤亜紗『身体の美学入門』中央公論新社、2026年
ルッキズムを主要な研究対象としている書籍ではありませんが、身体に対する美的判断をどのように考えればよいか、そのきっかけとよってたつことのできる理論を紹介してくれる本です。
・藤嶋陽子『「ありのまま」の身体——メディアが描く私の見た目 』青土社、2025年
ファッションとルッキズム、双方に関心のある方におすすめの書籍です。最近は、「ありのままのあなたが美しい」というような表現を目にすることも少なくありませんが、「ありのまま」でいることの難しさについて、著者自身の経験をふまえながらさまざまな視座を提供してくれます。
illustration: Riko Miyake(FASHIONSNAP)
◾️ゆるふわファッション講義
第1回:ファッション論ってなに?
第2回:可視化の時代におけるファッションとは?
第3回:美術展とは違う、ファッション展のみかた
第4回:「黒の衝撃」から辿る、日本の90年代ファッション再考
第5回:インターネット普及以後の日本ファッション⎯⎯平面性と物語性
第6回:私たちは“二つの身体”を持っている──ヌード、義足、厚底シューズ
第7回:不可視の装い「におい」がおびやかす、身体とファッション業界の未来
第8回:「考察する若者たち」から考える現代ファッション
第9回:ファッション論で紐解く 映画「プラダを着た悪魔2」
第10回:"ポケカブーム"から考える、服と「消費」の話
第11回:“おじさん短パン論争”から考えるルッキズム
最終更新日:
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