
「美しい」という感覚は、どこから生まれるのだろうか。これまで、感性を科学する「神経美学」の視点から、“真善美”が脳内の共通した領域で処理されている可能性を追った。芸術や音楽だけでなく、道徳や真理にも人は“美”を感じるのかもしれない—。
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一方で、いまだ疑問も残る。私たちが「美しい」と感じる感覚は、本当に自分自身のものなのだろうか。なぜ現代人は、これほどまでに「顔」へ価値を集中させるのか。美学研究を専門とする京都芸術大学教授・吉岡洋氏に、「美」をめぐる問いを聞いた。
吉岡洋
甲南大学教授、情報科学芸術大学院大学(IAMAS)、京都大学文学研究科教授、同大学こころの未来研究センター教授を経て現職。カントを中心とする18世紀ヨーロッパ思想、現代哲学、メディア論を中心に研究している。著書として、「情報と生命」(新曜社)、「思想の現在形」(講談社)のほか、美学芸術学、情報文化論に関わる著作、翻訳など多数。また、批評誌「ダイアテキスト」(2000-2003、京都芸術センター刊)編集長や、京都ビエンナーレ (2003)、岐阜おおがきビエンナーレ(2006)の総合ディレクターとして活動。文化庁世界メディア芸術会議(IGOMAG、2011〜2013)座長。美学会会長と日本学術会議会員(哲学委員長)も務める。
目次
「美しい」は定義するのが難しい
──まずは美学研究について教えてください。
美学には、大きく「狭い意味」と「広い意味」があります。狭い意味で言うと哲学の一分野に位置付けられ、日本では主に西洋哲学の流れの中で発展してきました。「哲学」というと論理や倫理を扱う印象が強いかもしれませんが、美学では感性や感情といった、人が「感じること」そのものを中心に研究します。こちらが私の専門とする美学研究です。
一方、広い意味での美学は、芸術研究全般を含みます。美術史、音楽、演劇、文芸に加え、近年ではゲームやデジタル空間における体験、漫画、アニメーションなど、ポピュラーカルチャーの研究も増えています。現在はかなり領域横断的になっており、従来あまり学術研究の対象とされてこなかった華道や盆栽といった領域にも研究範囲が広がっています。
──神経美学では、「視覚的な美しさ」も「内面的な美しさ」、そして“真善美”も、脳内では近い形で処理されている可能性が示されています。美学研究の観点からはどう考えますか?
まず「脳内で近い反応が見られる」という知見自体は非常に興味深いと思います。ただ、それによって視覚的な美しさ、内面的な美しさが“完全に同じもの”だと言い切れるかというと、そこは慎重に考える必要があります。神経美学は、脳の血流や活動の変化を通して、人がどのような価値や報酬を感じているかを分析する研究です。その意味では、美の経験を“快”や“報酬”と紐づくものとして捉える側面があります。
ただ、美的経験において何が「価値」や「報酬」として立ち上がるかは、人によって大きく異なります。同じものを見ても、ある人には単なる形や色としてしか知覚されない一方で、別の人には歴史的背景や文化的文脈まで含めて強く価値づけられることがある。つまり、感覚そのものだけでなく、その人が何を読み取れるかによって大きく変化するんです。美的経験というと「素直な感性さえあれば誰でも同じように理解できる」と考えてしまいがちですが、実際には、経験や知識によって見え方が変わる美しさもたくさんあります。
──では、美学研究では“真善美”はどのように捉えているのでしょうか。
準拠とする世界観によりますね。古代ギリシャ頃の古典的な世界観では、それらは究極的には同じものだと考えられてきました。それは同じ本質がある時には真理として現れ、ある時には美や道徳的な善として現れるという考え方です。
一方で、近代以降は、その3つが切り離されていきます。現代の私たちは、真理が必ずしも美しいとは限らない。美しい人が必ずしも善人ではない、という感覚の中で生きていますよね。

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──はい。それが自然に思えます。
古典的な美と善が結びつく考えが少し極端に感じるのは、私たちが近代人だからです。例えばギリシャ彫刻のヴィーナス像を思い浮かべてみると分かりやすいですが、あれは単に「美しい女性」を表しているのではなく、本質が人間の姿を取ったものなんです。もちろん神話の中には、美しいけれど邪悪な存在も出てきます。ただ、それはあくまで例外的な描かれ方であって、理想としては真善美は一致するものだと考えられていました。
──「美しい外見」と「美しい内面」が切り離されて捉えられるようになったのは、かなり近代以降なんですね。
そうですね。特に19世紀初頭のロマン主義以降、その感覚が強くなります。そこでは、「姿形は醜いけれど心は美しい」とか、逆に「見た目は美しいけれど内面は邪悪だ」といった人物像が描かれるようになったんです。そして私たちは、“真善美”が分離した世界の延長線上で生きています。
現実に宿る美
──先ほど美的経験には知識によって変化するとありましたが、これは視覚的なものに対してもいえますか?
はい。目に見えるものについても大きく影響を受けています。実は私たちがぱっと見て「美しい」と感じているものの多くは文化的な条件付けなんです。例えば、美人の基準は時代によって大きく変わりますよね。その時代、その社会の中で暮らしているうちに、「こういうものが美しい」という感覚が無意識的に刷り込まれていくわけです。
──ビューティ業界で示される理想像もその影響を多分に受けていると感じます。
そうですね。例えば、現代ではK-POPなどの影響からか「細身が美しい」という価値観が強くなっているように見えます。しかし、ルネサンス期のヨーロッパではむしろ豊かな体型が好まれていましたし、日本を取ってみても時代によって理想像はかなり異なっています。
──人以外の美しさへの捉えかたはどうですか?
自然の景観に対する感覚も同じです。現代人は自然を「美しいもの」として捉えますが、産業革命以前の人たちにとっては、今ほど特別な対象ではありませんでした。人工物に囲まれて生活するようになったからこそ、自然が希少で美しいものとして見えるようになった側面があるんです。
手作りの製品に価値を感じるのも近しい理屈です。大量生産品が当たり前の社会だからこそ、手作業の痕跡に特別な価値を見出すようになる。古着市場でダメージや経年変化に価値を見出す感覚も似た理由といえます。これらのように美しさは時代の環境や文化、生活条件と強く結びついています。
──以前に美にまつわる生物学的な理由として、遺伝子を残しやすいとされる個体が「美しい」と判断されやすいとお聞きしたことがあります。
そうですね、そういった生物学的な理由ももちろんあります。ビューティに関わることでいうと、なめらかな肌が美しいとされるのは、健康で安定した個体に見えるからなんです。
──「美しさ」は生物学・文化的な影響を受けていますが、個人の美意識や個性というのもその影響のもと象られていくのでしょうか。
少し逸れますが、そもそも「個性」を重視する考え方自体がかなり近代的なものなんです。ここ数百年の話ですね。例えば、個性と聞くと思い浮かべるであろう芸術家が作品に署名するようになったのも比較的新しいことです。それ以前は誰が作ったかはそれほど重要ではなかった。現在のように「これは自分らしい表現だ」という感覚は、歴史的に見るとかなり新しい価値観なんです。
そして個性は、何もないところから突然生まれてくるものではありません。それまでに見てきたものや経験の蓄積から生まれてくるものなんです。だから、自分の中に入っているもの以上のものは、基本的には出てこない。もちろん、生理的に反応しやすい形や色、音の傾向はあると思います。ただ、何を洗練されていると感じるか、何に価値を見出すかは、文化や経験によって大きく変わる。美意識というのは、個人の内側に独立して存在しているというより、環境や歴史といった現実との関わり中で形成(条件づけ)されていくものなんです。

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「街の明かり」と「メディア」が美意識を変えた
──その人が見てきたものや環境によって、美的基準が変わるとなると、研究するのが難しそうですね。
まあ、そうですね。ただ「条件づけられている」ということ自体は、別に否定的なことではないんです。むしろ私たちは、同じ時代や文化の中で似たような感覚を共有しているからこそ、共感することができる。そうやって人と人をつなぐ働きを持ってるのが「美」なんです。
もちろん、「これは自分だけが美しいと思っている」という風に感じることはあります。ただ、多くの場合「どこかに共感できる人がいるはずだ」という感覚が裏にはあります。たとえ今の時代に理解者がいなかったとしても、「100年後にはいるかもしれない」や、「昔にはいたはずだ」と考える。つまり美的経験というのは、完全に孤立したものとして存在することが難しいんですね。それは美的な感覚が本質的に、共同体を成立させたり維持したりする機能とも関わっていることに由来します。
──「美しい」という感覚の裏には他者と共感したいという欲求があるんですね。
はい。ただし、その「他者」の範囲はかなり広いんです。隣にいる人と同じものを美しいと感じて親しくなる、という日常的なレベルもあれば、現実には存在しない未来や過去の誰かとの共感を想定している場合もある。
だから美というのは、個人の感覚でありながら、同時に常にどこかで他者へ開かれている経験でもあるんです。
──ちなみにビューティ業界に代表されるように、現代で「美」と言うと、特に“顔の美しさ”を指すことが多いですがそれはなぜですか?
背景にあるのは、19世紀以降に発達したグラフィック文化です。雑誌、新聞、映画、テレビ、そして現在のインターネットまで、視覚情報が大量に流通する社会になったことで、人は「見ること」を中心に美を判断するようになりました。その結果として、かつてのように全身の雰囲気や所作ではなく、「顔」が極端に重視されるようになります。今では、美の判断に関わる多くが顔面に集中していますよね。

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一方で昔の文化を見てみると、感覚はかなり異なります。たとえば平安時代の恋愛では、相手の顔をほとんど見ずに関係が始まることも珍しくありませんでした。歌のやり取り、声、衣装、気配、教養などが魅力として機能していたからです。ただもう1つ考えられる要因があるんです。
──もう1つ、というと?
「光」の問題です。20世紀初頭まで、夜の世界は基本的に暗いものでした。蝋燭や行灯(あんどん)しかない空間では、顔や細部は今ほどはっきり見えません。そのため、視覚だけでなく、声や気配、想像力を使って他者を捉えていました。
メイクアップを例にとると、舞妓の白塗りも同じ理由によるものです。現代の明るい照明下ではやや過剰に見えるかもしれませんが、もともとは暗い室内でうなじや輪郭を浮かび上がらせるための化粧でした。つまり、暗い環境に適応した美の形式だったわけです。
──「源氏物語」では、夜に光源氏が女性のもとに通う場面がありますが、顔は見えていなかったと。
そう考えるのが自然でしょう。有名な「末摘花」のエピソードでは、光源氏が朝になって初めて相手の顔をしっかりと見て、普賢菩薩の乗り物、つまり象のように垂れ下がった鼻に気づく描写があります。現代の感覚なら「そんな特徴的な顔なら夜でも気づくだろう」と思ってしまいますが、それほど当時の世界は暗かったといえます。
興味深いのは、光源氏がそれを見て「おもしろい」と受け止めている点です。つまり、顔の造形が恋愛や人間評価の絶対的中心ではなかった。私たちから見ると「なぜ顔も見ずに恋愛できるのか」と不思議に思えるかもしれません。しかし当時の人からすれば、逆に現代人の“顔への執着”の方が異様に見えるのではないでしょうか。
──舞妓さんの化粧に代表されるように、当時の美的基準が現代では当時を表す文化という形で残っています。現在の顔中心の美意識も今後そのように扱われる可能性はあるのでしょうか?
もし将来文明や生活環境が変化し、夜が再び暗い世界になれば、人々の美意識も変わるかもしれません。そのとき未来の人たちは、「21世紀の人間は、なぜあれほど顔ばかり気にしていたのか」と不思議がる可能性もあります。
つまり今のビューティスタンダードも絶対的なものではなく、ある時代の技術環境とメディア環境が生み出した、一種の“文化的癖”になりうるというわけです。近年問題視されているルッキズムも、明かりが消えた暗い世界になれば変わるのかもしれませんね。
西洋における“救いの美”
──日本における美しいとされる顔はどのように条件付けられていったのでしょうか?
明治維新が鍵となります。それ以前に日本の絵師が描いたヨーロッパ人の顔は、どちらかといえば「変わった顔」として扱われており、当時の理想とは異なっていました。しかし明治維新以降、大量の西洋文化が流入し、それらが「進んだもの」「近代的なもの」として理想化されていきます。そうした中で、西洋的な顔立ちや肌の色までもが、美の基準として強く入り込んでいったんです。
例えば、「通った鼻筋」「立体感のある顔」「印象的な目もと」「白い肌」が美しいとされる感覚も、西洋近代への憧れによる側面が大きいということです。
──近年はK-POPが世界的な影響力を持っています。これは西洋的な美の基準を東アジア的に再編集したものとも見れます。
そうですね。K-POPの美意識も、完全に西洋とは切り離されたものではありません。むしろ近代以降に形成されたグローバルな美の基準を、独自に再構成した側面が強いと思います。
興味深いのは、そうして形成された美が、欧米圏にも強い影響を与えていることです。もちろん、これは単純な「東洋と西洋の逆転」という話ではありません。西洋では昔から、自分たちの外部に理想や幻想を投影する傾向がありました。中東や東洋に対して「神秘性」や「官能性」を見出そうとする感覚ですね。
──それは何故でしょうか?
近代ヨーロッパ社会で、窮屈さを感じることがあったからです。キリスト教的な道徳や規律の中で生きながら、一方では資本主義社会の中で欲望や競争にもさらされる。「してはいけないこと」と、「実際していること」との矛盾や息苦しさなどから、自分たちとは異なる文化圏に救いや解放感を求めるようになるというわけです。
──思想的な部分に救いを見出すのは想像しやすいですが、見た目にもそれが投影されるんですね。
はい。というのも、異文化の人々の外見は単なる顔立ちとしてではなく、「別の生き方」や「別の価値観」の象徴。それは、自分たちを縛っている文明から解放してくれる“救いの美”として映ったんです。

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揺らぐ基準 絶対的な神話を求めて
──ここまで伺っていると、「美しい」という感覚には絶対的な基準がないようにも思えます。
これは哲学でも大きなテーマですね。古代の考え方では、美や価値は人間とは無関係に存在していると考えられていました。これは美そのものが人間とは無関係に実在しているという考えです。
一方で、近代以降は逆になります。人間の認識や経験から美が見出される。人間がいなければ美も存在しないという感覚です。現代人にとってはこちらのほうがしっくり来るかもしれません。ただ、そうした流れが進んでいくと、「価値は人それぞれだ」という感覚も強くなっていきます。もちろん自由ではあるんですが、一方で、あらゆる基準が相対化されてしまうしんどさも出てくるんですね。
──こういった流れは実際に目に見える形で現れていますか?
はい。例えば、今は美術館ですら「何を価値あるものとして展示するのか」という基準自体が揺らいでいるんです。以前は西洋美術史が1つの基準になっていましたが、現在は「それはヨーロッパ中心主義ではないか」といった批判も強い。
美しい女性像を展示しても、「それは男性の視線による美ではないか」と問われる。あるいは、西洋人が東洋を描いた作品についても、「それは西洋側の視点による東洋表象だ」と批判されるなど、キュレーターは非常に難しい立場に置かれています。つまり、単に作品を見るだけではなく、「誰が、どんな立場から美を定義しているのか」まで含めて問われる時代になっているんですね。
──基準が増えた一方で、根拠とする基準を持ちづらくなっているんですね。
「価値は人それぞれだ」という考え方は自由でもあるんですが、一方で、あらゆる基準が相対化されてしまう苦しさもある。だから近年は、逆に「もっと確かな拠り所が欲しい」という感覚も強くなっているように思います。
そして“絶対的なもの”は多くの場合「神話」と結びついているんです。古代社会では、共同体が共有する神話があったからこそ、美の基準にもある程度の安定性がありました。しかし、現代は、その神話が解体されてしまっている。だから今は、「新しい神話」が必要だという感覚がどこかにあるんです。
──新しい神話、ですか。
それを強く考えたのがロマン主義ですね。19世紀初頭は産業化や政治的混乱があり、これまで信じていた文化基準が瓦解していった。だから人々は、「今の時代に合った精神的な拠り所が必要だ」と考えたんです。
ただ、この200年を振り返ると、新しい神話や絶対的価値を作ろうとする試みは、何度も危うさも生んできました。だから現代人は、「何かを信じたい」という感覚を持ちながらも、一方で、強く信じすぎることへの警戒感も抱えている。共通の価値基準を求めながら、それを絶対視することにも不安がある。どこか宙吊りの状態にあるんです。
編集後記
吉岡教授にビューティ・ファッションの観点で、習慣やスタイルを尋ねると、、、
自分のために冬など乾燥する時期には保湿のためクリームを使用するほか、ヘアスタイルは30代から弁髪を継続しているそうです。
最終更新日:
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