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【連載ふくびと】デザイナー島田順子 第7話——必死で守りたかったもの

一井智香子編集小湊千恵美

Image by: Koji Hirano

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第6話からつづく——

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 1980年代の日本では、DCブランドブームが幕を開け、ファッション界が大きな盛り上がりを見せていた。ボディコンスタイルが流行する中、独自の美学で体のラインを美しく見せる「フォーティナインアベニュージュンコシマダ(49AV JUNKO SHIMADA)」が注目を集める。その頃の島田順子は、幼い娘、今日子を育てながら仕事に打ち込む日々。ビジネスは上向いていたものの、時間と生活に余裕はなく、がむしゃらに走り続けた。——「ジュンコ シマダ」のデザイナー島田順子が半生を振り返る、連載「ふくびと」第7話

私の仕事の原点

 とにかく毎日が必死でした。幼ない娘を一人で育てながら、パリで仕事を続けていくのは簡単なことではなかったから。それ以上に苦しかったのは、「寂しい思いをさせてしまっている」という思いでした。当時の私は、自分の人生よりも、そのことばかり考えていたわ。

 娘の今日子がまだ小さかった頃、一緒に遊んでいたお友達のお母さんが、「パパが待っているから帰ろうね」と何気なく言ったんです。そうしたら今日子が私に聞いたのよ。「お友達には、パパ、いるの?」って。なんで私にはパパがいないの? と言いたかったのでしょうね。今でも思い出すと、胸がぎゅっと苦しくなります。

1980年代の写真。娘の今日子と。 Courtesy of Junko Shimada

 ブランドを始めてからは、ほとんど寝ない生活。ベビーシッターを雇えるような余裕もなかったから。電気代が払えなくて、電気を止められたこともあったのよ。最初の頃は、モンマルトルのアパルトマンが事務所代わり。娘がお絵描きをしたり、お人形で遊んだりしている横で、私はサンプルの確認や打ち合わせをしていました。一度、ファッションショーのフィナーレで、大泣きした娘を抱きかかえたまま挨拶したこともあったわね。

「娘を幸せにするためにプロになると決めた」と話す Courtesy of Junko Shimada

 学校が始まった頃には、朝は近所のカフェで娘にクロワッサンを食べさせて学校へ送り出し、私はそのまま仕事に向かう。帰りは遅かったから、寂しい思いをたくさんさせたと思う。

 だからなのか、娘の今日子は今、自分の子どもを本当に丁寧に育てているんです。いつも子どもの気持ちを優先しているの。私はきっと、彼女の反面教師かもしれないわね。

 デザイナーとして成功したいとか、有名になりたいとか、そんなことはあまり考えていなかった。まずはこの子を幸せにしなければいけない、という一心でした。一生懸命働いて、絶対に幸せにするからねって。これが私の仕事の原点なんです。

父がくれた一言

 楽しかった思い出もたくさんあるのよ。パリの幼稚園が長い休みに入るたびに、今日子を連れて日本へ帰りました。館山の実家に滞在して、地元の幼稚園や学校にも通わせて。日本というルーツを忘れてほしくなかったし、日本の文化や行事も経験させたかった。親にしてもらったことを、今度は私が娘にしてあげたかったんです。

娘の今日子と、館山の実家で Courtesy of Junko Shimada

 館山に帰ると、いつも両親が待ってくれていました。恋人と別れて悲しみに暮れていた時もそう。父は私の話を黙って聞いた後、たった一言だけ言ったんです。「これから、いい女になれよ」って。父親が娘に言う言葉じゃないわよね(笑)。でも私は、その言葉にとても胸を打たれたの。どんな時も応援してくれた父と大切な家族がいたから、困難なことも乗り越えられたんだと思います。——第8話へつづく

【毎日更新】第8話「フランスに2つの家 結婚」は、8月12日に公開します。

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