Image by: Koji Hirano

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第5話からつづく——
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1976年、島田順子はパリで娘の今日子を出産。しかし未婚のままパートナーとの別れを迎え、人生のどん底を経験する。悲しみの淵にあった彼女を救い、奮い立たせたのは、身近な人々の言葉と娘の存在だった。日本のアパレル会社 ルシアン野村の野村直晴社長による後押しを受け、1981年に自身の名を冠したブランド「ジュンコ シマダ(JUNKO SHIMADA)」を始動する。——「ジュンコ シマダ」のデザイナー島田順子が半生を振り返る、連載「ふくびと」第6話
人生のどん底に舞い込んだオファー
娘が生まれたのは、私の人生で一番感激したこと。本当に嬉しかった。でもその後、1年ほどで恋人と別れてしまったんです。悲しくて、辛くて、食事ものどを通らずに、体重が35キロまで落ちて。どうしようもなく苦しかったわ。

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その頃、以前から知り合いだったワコールの塚本さん(ワコール創業者 塚本幸一)が、京都の財界人を連れてパリを訪れました。そのメンバーのお一人が野村さん(野村直晴 ルシアン野村 社長)。どん底にいた私の話を一晩中、親身に聞いてくれた。そして、私の仕事ぶりを見てくれていたのか「ブランドをやらないか」と声をかけてくれたんです。
当時は「キャシャレル(Cacharel)」で働いていたのだけど、次はワークウェアのようなデザインをやりたいと思っていました。なのでその時は、自分の名前を出して商売をするつもりがなかったので、1年待ってくださいませんか? と伝えたの。
そうして1年後、野村さんが改めて「全面的にバックアップしたい」と二度目のオファーをしてくれたんです。熱意が心に響いたわね。たくさん話をして、この人なら信頼できると確信したので、一緒にブランドを始める決意をしました。
40歳、パリでデビュー
野村さんの思いに応えたいという気持ちから始めたけれど、娘を育てていくためには自分が頑張るしかない。とにかく必死に服を作りました。
1981年10月20日、「ジュンコ シマダ」として初めてのショーの当日。日本からパリまで来てくれた野村さんは、なんとモーニングを着ていたのよ。ショーが始まる1時間も前に来て、正装でフロントローに座っている姿を見た時は、本当に嬉しかった。そしてファーストコレクションは、パリの有力百貨店オー・プランタンから、400着のオーダーをいただくことができました。

1981年のデビューショー Courtesy of Junko Shimada
その2ヶ月後には、東京でもコレクションを発表しました。パリのアトリエの住所にちなんで名付けたブランド「フォーティナインアベニュージュンコシマダ(49AV JUNKO SHIMADA)」として。会場は、東京・六本木のアクシス・ギャラリー。予算がかなり限られていたから、友人たちに手伝ってもらいながら準備を進めて。仲間のサポートがなかったら、実現できなかったと思う。

1984年春夏コレクション。モデルのグレイス・ジョーンズとフィナーレに登場した。 Courtesy of Junko Shimada
私のコレクションは、当時の日本では斬新なデザインだったのでしょう。会社の役員からは酷評で、「こんな服は売れない」とも言われたの。でもショーの3日後、伊勢丹から受注が舞い込んできて、ホッとしたわ。——第7話へつづく
【毎日更新】第7話「必死で守りたかったもの」は、8月11日に公開します。
最終更新日:
【連載ふくびと】デザイナー 島田順子 全10話
第1話—糸を紡ぐ祖母と趣味人の父
第2話—学校よりもフランス映画に夢中
第3話—単身パリへ、ショックの連続
第4話—大切な友人、賢ちゃんと一生さん
第5話—学びは宝 「キャシャレル」へ
第6話—どん底から「ジュンコ シマダ」デビュー
第7話—必死で守りたかったもの
第8話—フランスに2つの家 結婚
第9話—愛される服を作りたい
第10話—「ジュンコ シマダ」45周年 みんなが幸せになるために
どん底から「ジュンコ シマダ」デビュー
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