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【あの人の東京1年目】俳優 河内大和と稲田堤

Image by: FASHIONSNAP

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 第一線で活躍する著名人たちが、自身のキャリアに影響を与えた“東京“の街について語る連載企画「あの人の東京1年目」。12人目は、俳優 河内大和(こうちやまと)さん。40歳を超えてドラマ「VIVANT」や映画「8番出口」といった話題作での演技が注目を集めブレイク。その裏にあるこれまでの苦悩や研鑽を、下積み時代を過ごした多摩川沿いの京王稲田堤で振り返る。“遅咲き俳優”河内大和さんは、どのような紆余曲折を経て今の場所に辿り着いたのか。夢追い人たちへ贈る、明日へのヒント。

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休学に母の涙...自分を認めてくれた役者の道

 僕は山口県岩国市生まれ。いろいろなことに興味がある好奇心旺盛な少年で、小学生の頃はソフトボールとサッカー、中学時代は軟式テニス、高校でまたサッカーに打ち込みました。最初は野球選手になりたくて、その次はサッカー選手、その次に映画「バックドラフト」を見て消防士に憧れました。一番真剣になりたいと思っていたのは漫画家で、手塚治虫先生やゆでたまご先生、荒木飛呂彦先生から影響を受け、中学・高校の机は「ジョジョの奇妙な冒険」の落書きで埋め尽くされていました。余談ですが、ジョジョのミュージカルに出演させていただいた際に念願叶って荒木先生とお会いできたときは本当に感動したのを覚えています。 

幼少期の河内大和さん。両親と離れるとすぐに泣いてしまう泣き虫だったという。

 高校3年生の時、映画好きな友達と出会ったことをきっかけに映画をたくさん見るようになりました。なりたいとまでは思っていませんでしたが俳優に憧れ、「セブン」に出演していたブラッド・ピットの真似をよくしていたものです。進路は、父が土地家屋調査士をしていた関係でなんとなく土木関係かなと考え、建築学科を志しました。雪が降るところに行きたいなと思い、後期日程で新潟大学を受験し合格しました。

 大学では、映画が好きだったので演劇研究会に入りました。勉強が難しかったのと、そこまでの熱量があったわけでもなかったのでついていけなくなってしまい、逃げるように演劇に打ち込みました。結果、親に通知がいって休学することになりました。母は泣いていました。父は「とにかく母親を泣かすな。それだけはちゃんと守ってくれ」とだけ僕に言いました。その言葉とそのときの両親の顔は、今でもよく覚えています。

 休学したタイミングで新潟市民芸術文化会館「りゅーとぴあ」ができて、俳優養成講座に応募したら合格。そこでシェイクスピア作品と出会い、「りゅーとぴあ」がプロデュースする作品に出始めるようになりました。稽古は夜。それ以外の時間はガソリンスタンドや警備員などのアルバイトに費やしました。そして2000年、東京での遠征公演「リチャード三世」でデビューを果たし、俳優として初めて出演料をいただきました。このまま上京してしまおうかという思いもよぎりましたが、当時のプロデューサーに「今、東京に出ても大量の砂の一粒にしかならない。新潟で芝居の基礎をもっと学んだほうがいい」と言われ思いとどまりました。今考えると、あのとき上京しなかったのは大きかったと思います。

 27歳の時、演劇から離れました。シェイクスピアの「マクベス」で初めて主役を務めた直後、指導の厳しさと芝居への恐怖で声が出なくなってしまいました。当時は「この世界は自分には合わなかった」と、本気で芝居を辞めたつもりでいました。

 1年半ほど家具の配送のアルバイトをして食いつなぎ、「何のために自分は生きているんだろう」と思い始めていたとき、新潟のプロデューサーから「ルーマニア公演があるからやってみない?」と声がかかったので受けました。海外で芝居できる機会なんてなかなかないだろうし、これを最後にきっぱり辞めようと思ったからです。この公演も遠征先で熱を出したり、喉を痛めて声が思うように出せなかったりとしんどいことばかりでしたが、役者人生最後になるはずだった新潟の凱旋公演で僕の人生は変わりました。芝居を終えてカーテンコールで舞台に戻ると、たくさんのお客さんから「河内!待ってました!」の声。自分の存在価値がよく分からなくなっていた時期だったので、僕を認めてくれる方がこんなにたくさんいるんだと知って自然と涙がこぼれ、「ここで生きなきゃいけない」と覚悟が決まりました。

逃げるように上京、2日目で東日本大震災

 32歳で上京(稲田堤は多摩川を挟んでギリギリ神奈川県なので厳密には上京ではないですが)しました。山口で生まれ新潟で14年を過ごした僕は都会に対して「怖い」というイメージしか持っていませんでしたが、新潟での修行が厳しすぎたのと、主演、舞台監督、照明など多くの役割を一気に任せられたことで急性胃炎になり血を吐いてしまったため、逃げるように上京したというのが正しいニュアンスかもしれません。

河内さんが暮らしていた6畳一間のアパートの跡地。今は別の建物が立っている。

 上京して、2日目に東日本大震災が起きました。震源地から離れているとはいえ、山積みの段ボールが大きく揺れて、富士山が噴火したのかと思ったのを覚えています。震災が起きてから東京の方も難しい状況で、なかなか仕事もバイトもできませんでした。新潟でお世話になった方の縁でサッカースクールのチラシ配りなどのバイトをさせてもらい、なんとか食いつなぎました。行きつけは、今はなき駅の近くのガストと松屋でした。

 つらい時は映画を観ました。映画を観ている時間だけは全部忘れられたんです。観終わると現実が一気に押し寄せて余計つらくなりましたが、それでも映画に救われた部分は大きかった。このときから、いつか俳優として映画に出演したいと強く思うようになりました。

 自分のキャリアを語るうえで欠かせない恩人が、俳優の吉田鋼太郎さんです。新潟時代にも面識はありましたが、上京してしばらくして再会し、演出家の蜷川幸雄さんに僕を推薦してくれました。これによって「彩の国シェイクスピア・シリーズ」への出演が決定。蜷川さんの死後、吉田さんが演出を引き継いだ「ヘンリー五世」では、主要キャストに登用してくれました。40歳を目前にして仕事が軌道に乗り始め、ようやくアルバイトなしで生活できるようになりました。

稲田堤時代によく利用したというBOOKOFF

ドラマ「VIVANT」に抜擢、役者としてスタートラインに

 結婚して子どもも生まれ、飛躍を目指した2020年、再び壁にぶち当たりました。コロナ禍です。緊急事態宣言などでそれまでの仕事が全部飛んでしまい、家の押入れでハムレットを朗読して配信したり、「ウーバーイーツ」の配達員として再びアルバイトをしたりして生活しました。

 そんななか、転機が訪れます。大学時代から憧れていた劇作家の野田秀樹さんが声をかけてくださり、阿部サダヲさん、長澤まさみさんなどが出演した東京芸術劇場での舞台「THE BEE」のメインキャストの一人に抜擢されました。これを「VIVANT」のプロデューサーさんが観てくださっていて、出演が決定。それまで地上波はおろかドラマ自体出たことがなかったので、信じられない思いでした。

芝居の練習に明け暮れた稲田公園

多摩川の高架下も大事な練習スポット。「大きい声を出しても迷惑にならないのがいいんです」(河内さん)

 「VIVANT」の撮影は、「失敗したら二度と映像の仕事はない」という不退転の覚悟で臨みました。特に最後のシーンは堺雅人さんや阿部寛さん、ずっと憧れていた役所広司さんといったトップ俳優の方々と対峙することになり人生で1番緊張しましたが、福澤克雄監督が舞台のような雰囲気を作ってくださったこともありなんとか乗り越えることができました。

 最終回の放送は、自宅で観ました。妻からは「頑張ってきてよかったね」と言われ、両親からも「良かった」とメール。そのときやっと、「迷惑をかけてきた両親に少し恩返しができた」と思えました。

 その後、2025年に「8番出口」のおじさん役を演じたことで有難いことに映像の仕事が急増。街中を歩いていて、道ゆく人に話しかけられることが増えました。話しかけたそうにしている小さな子どもも少なくないので、そんなときはこっちから話しかけることもあります(笑)。47歳、役者として新たなスタートラインに立てたように感じています。

俳優 河内大和の“夢”

 半生を振り返ると、苦しいことの連続でした。自分が嫌で嫌で仕方なくて、違う人になりたかった。演劇や芝居は、僕にとって逃げ込む場所で、楽しいと感じたこともほとんどありませんでした。でも、俳優 浅野和之さん*をはじめとする数々のご縁や色々な経験を通して、ようやく楽しいと思えるようになりました。

*「ある女の家」という舞台で浅野和之と共演。その自由な表現を見て、「こんなに楽しんで仕事をしている人は初めてだ」と雷に打たれたような気分になったという。

 もちろん芝居は生活していくための仕事であることに変わりはないですが、今は趣味の延長にある感覚で、研究者が真理を追究するプロセスに近いように思います。今の目標は、多くを語らなくても何かが滲み出て、その場に“存在できる”俳優になること。何もせず、ただそこに“いる”というのはすごく難しいです。立っているだけでその役の半生が見えてくる。その境地まで辿り着き、ゆくゆくは主役を張れるような役者になれたらと思います。

 また、最近はもう一つ夢ができました。僕はファッション好きな妻の影響で「ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto)」の服を愛用しています。僕のもう一つの夢は、ヨウジヤマモトのショーにモデルとして出演し、ランウェイを歩くこと。そのためにも、目の前の仕事に真摯に取り組み、相応しい俳優になりたいです。

この日の私服は、ビーニーが「Ground Y」、ジャケットとパンツが「Yohji Yamamoto POUR HOMME」、シャツが「IM MEN」、シューズが「Dr.Martens」。

 最後に、未来に向かってもがいている、かつての自分のような皆さまへエールを送ります。夢を叶えるためには苦しみは付き物で、その渦中にいるとすごくキツいです。でも、自分一人で抱え込まないでいろんな人に助けてもらってください。いろんな助けにすがって、強い信念を持って頑張り続けていたら、光は見えてきます。時にはくじけてもいいので前を見て頑張り続けてください。情熱をいつまでも忘れずに歩き続けることができれば、必ず夢は叶うはず。僕もまだ夢の途中。自分が選んだ演技の道で、情熱を燃やし続けます。

photography: Sumire Ozawa

村田太一

Taichi Murata

群馬県出身。男子校時代の恩師の影響で大学では教員免許を取得するも、ファッション業界への憧れを捨てきれず上京。2021年にレコオーランドに入社。主にビジネスとメンズファッションの領域で記事執筆を担当する。幼少期、地元の少年野球チームで柄にもなくキャプテンを任せられた経歴を持ち、今もプロ野球やWBCを現地観戦するほどの野球ファン。実家が伊香保温泉の近くという縁から、温泉巡りが趣味。

最終更新日:

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